げんしんはじめて1年以上経った 番外1

ゆやなぎ
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公開:2025/11/6

※この記事はほよばーすさんの提供されている「原神」というゲームを約1年でなんやかんや結構やったひとによる約1年間のぼんやりとした感想をまとめただけ...の、さらにぼんやりとした考えをまとめただけの記事です

※当たり前にネタバレを多量に含みます。なんか知らんけどこの記事はFF8のネタバレも含みます。

※非常に個人の見方に偏った感想です。特に深い考察とかはないのでゆるい気持ちで読んでください。

◆クリエイティブの精神

 このげんしんってゲーム、何かと「未来は大事だよ」という言葉が出てくる。もしくは、年長のものによる年少の命への見方は非常に「子ども」を大事にしているし、時間と歴史の捉え方を見ても、過去を乗り越えて未来を見据えるみたいな話の傾向がある。新しく生まれた命や、新しく導き出された方向性はどんな形でも受け入れ、未来への展望を抱く。

 これ、こういう抜き出し方をすると倫理的な話というか、そういう風に見えるものでもあるのかなと思うが、俺はどちらかというと「クリエイティブの精神」なのかなと思って見ている。クリエイティブの精神ってなんぞや?まぁこれからする説明はあくまで俺がそういうふうに思っていますというだけの説明で、何か論拠や先立つものがあるわけではないから単なる個人の見え方として捉えて欲しいが、要するに「創作するもの」、「クリエイターによる人生論」みたいな感じ。

 当たり前だけどゲームって誰かの創作物だ。勝手に生まれてくるものじゃない。誰かがビジョンをもって作ろうとして作らないと世には存在しないものだ。創作物って当たり前だけどみんなそう。でもこの世にない、誰かの想像の中にしかなかったものを作り出すっていうのは非常に面白い行為だ。だってそうしようとしなければ、我々がいる世界ってやつに与えられたものを享受するだけでは、運命みたいなものがあるとしてそれを受け入れるだけで人生は終わる。もちろん、人によってはめちゃくちゃ恵まれてて、ボケっとしてても順風満帆に生きられたりもするんだろうけど、じゃあそうじゃないひとはそうじゃない人生を受け入れたままで終わるだけを肯定できるもんでもない。これは極端すぎる話だが。

 人生はある程度なんか決まってるとか運命論を実際現実信じるかどうかはともかく、いまあるものに満足できず自分で新しいものを作り出そうとするという行為、つまりクリエイティブな活動ってのは常に指向が未来に向いている。そしてそれらは既存の、過去にそうしてきたクリエイティブな活動の先にまだ新しいものを求めていく。そしてそれらはよりよい、理想の形になるために作り手によって「よい」とされるもの、あるいは必要なものを取捨選択して組み上げられていく。

 しかもそれらは一度出来上がって世に誕生したあと、時代や時間の宣告を受けながら次は「古く」なっていくのだ。だからまた時代や時間の宣告と共に、新しいひとたちが新しい何かを生み出していく。その新しいひとというのは新しい何かのアイデアを得たひとでも、新しい世代のひとかもしれない。

 げんしんの話の中にある指向ってたぶんかなりこれらのものなんじゃないかなと感じている。もちろん俺が勝手に感じているだけなので違うのかもしれないけど、そう考えると納得のいく世界やキャラクターのデザインが結構ある。

◆神の目

 元素って可能性らしい。どっかの説明にかいてあった。もとを辿るとナタの燃素とかがあるんだけど、燃素はなんか演算子みたいな話も世界任務だかでされていた。燃素を使った文明を築いていたナタの龍たちはデータ存在っぽいし、なんだかちょっと懐かしい雰囲気を感じる姿だったりもする。アハウは良い例だろう。レトロゲーム的だ。

 神の目の元素をあらわす表記が英語だとvisionらしくてなるほどなぁとなる。ガイアさんによると神の目は元素を導く器官らしい。視線を導く器官が目なら、元素を導く器官が神の目。わかるんだけど、そういう理解と説明ができるガイアさんはわりとすごい。

 神の目はまだよくわからないことも多いけど、序章で既にウェンティが神の目を持つものはみんな神になる資格があって、それらは原神と呼ばれるとかなんとか説明してくれている。神になるってなんぞや?七神たちは俗世を取り仕切っているけど、彼らはそれぞれに理念がある。自由、契約、永遠、知恵、正義...国はそれらを具現する形で存在している。神は理念、或いはそれは俺から見ると神の「願い」かなと思うから、言い換えてつまり世界に願いをもって自分の国を作るものなんだと思われる。つまりやっぱりクリエイターだ。

 神の目を手に入れた経緯は、明確なひともいればわからないひともいるが、だいたいキャラストの最後の項目にかかれている。いろんな経緯があって、何がきっかけなのかははっきりしないけど、個人的に興味深いのはカーヴェさんだ。カーヴェさんはげんしんのキャラのクリエイターとして筆頭にあげられるひとだろう。そんな彼は学生時代に幾度となく物理的な命の窮地に自他問わず陥り、そのたびめちゃくちゃがんばって自分も他人も生かしてきた。そんな目に遭いまくっても彼は神の目を授からなかったから、彼は自分に神の目は縁ないものなのだと思っていた。でも彼がアルカサルザライパレスのために家を失う選択をし、ピタパンで小さなそれを作ったときにそれは現れた。詳しくはキャラストを読んでくださいなんだが細かな記述のされ方からも彼が彼のクリエイターとしての道を実際に歩み出したときに神の目はあらわれていると捉えてよいと思う。

 クリエイターというとわかりにくいのは、クリエイティブの精神というと創作と結びついてしまってそうではないものとは無縁に見えてしまうからなんだろう。前述の通り、クリエイティブの精神は「いまこの世に自分で想像した何かを生み出そうとする」ことだから、願いとも結びつくし、そういう視点で見ていくと神の目はなかなか興味深い。そしてそのビジョン、元素には各神の願いと共鳴する何かしらがあるのかもしれないし、あるいは言われてる通り、神の目を引くものだったということなのかもしれない。だってクリエイトしたならそれは見えるものになるからね。

 一方でこの話は残酷だが、神の目を授からなかったひとたちはそういった神の目線を引かない、偏愛を受けられない、クリエイターとして認められなかったひととも見られてしまうため、心が痛む面もある。偏愛と称されたのは間違いなく創作物の側面を言い表わしてると思う。大多数のひとはそうなのだというのも。

◆運命 ちょっと脱線

 そういえば、読んでくれてる方々はFF8というゲームはご存知だろうか?まぁ有名なゲームだからプレイしたひとも多かろう。いろんな考察が出回っているので詳しい話はとりあえずおいといて、このゲームが「愛がテーマ」だったこともまぁ大抵のひとが知ってると思う。この「愛」は本作にさまざまな形で散りばめられていて、わかりやすい主軸のスコールとリノアの関係(のちに周年記念アルティマニアでライターの方が「男女の恋愛なら一般論を重ねてかけるのでは」という経緯でそうなったことを話しておられたけど、この「一般論」が「主軸」として出されていることもまた実に面白いのだけどとりあえず省略)以外にもいろんな愛がある。そしてなにより、このゲーム自体が「RPGへの愛」をもって作られたゲームである。こういうED分岐などはない、主人公が投影型でもない人格のあるキャラクターのRPGをプレイする理由に関して、ジャンクションという、キャラの脳に居座って彼らの視点から垣間見るシステムと設定を踏まえて「過去は変えられない、過去を見て変わるのは今の自分である」と明確に言わせている。FF8という物語が最終的にひとつの運命の円環を描いた話であること(FFは1も輪廻の話なんですよね)など、このFF8は作り手側のRPGというものへの強い意思をたたえた作品だと少なくとも俺はそう思う。

 本作のサブイベントに「釣り爺さん」と「シュミ族の村のツクリテ」の話がある。このふたつは実に変なイベントで、特に本編に関わりもなければプレイアブルキャラクターが直接関わる話でもない。でもなんか異様に長くて、なんか意味深な話をされる。俺もプレイしてたときはよくわからなかったが、あとから思うと「クリエイターの話」をしてたんだなっておもう。釣り爺さんがF.Hという街の名前に関してスコールに、「なんでフィッシャーマン(釣り人)なのにホライズン(地平線)なんだ?」ときかれて、特に深い意味はなかったと暴露するシーンは、この字面もあってまさに「FF(ファイナルファンタジー)」を振り返る形になっている。ツクリテが族長になることを渋るのは、職人でいたいからだ。開発の上に立ったら実際に作る側にはならなくなるみたいな話をしてる。これらのイベントを盛り込んでいるのもたぶん先に話した「RPGへの愛」に関わることなのだと思う。

◆運命 本題

 で、なんで急にFF8の話?なんだがまぁつまり ゲームの作り手とゲームへの愛と「運命」って繋がってんだよなという実感の話がしたかったんですが。げんしんにも何かと運命の話題が出る。予言は未来の歴史だから覆せない。それでも未来のために足掻く今を否定しない。これは未来を想像し描くクリエイティブの精神が現実向き合うものと相違ないし、テイワットが神というクリエイターによって作られているなら尚更で、そしてクリエイトされた命がそういう話をするのもある種のお約束なんだけど。

 そういえば俺はげんしんで一番好きなキャラがガイアさんである。彼と「運命」はまさに命題だけど、彼はデートイベントの中で「たとえ結末が決まっていたとして運命に抗うべきか?」という投げかけを旅人にしている(そして旅人は「抗う」と答え、それに対し「そうあらねばならぬか。...そうあらねばならぬ」とガイアさんは答えているわけなんだが)このとき手に入るアイテムはこれを「古い問いかけ」と示していてこたえは旅のあいだ、時間はあるからゆっくり見つけようみたいな話が綴られている。

 彼は世界を台本どおりに進む舞台だと思っている。そこにいる誰もが役者で、観客だという。でも台本どおりに進む舞台を退屈に思っているし、台本が気に入らないなら舞台を降りてもいいという。これは、いやなことや気の乗らないことはそうということを「いいやつ」というような感覚とも繋がるし、彼は他人の美徳を見つけるのが得意だ。ひとが好きなんだろうな、と思うが、なんとなくこの言い方はガイアさんとはあまり結びつかない。適切な言い方ではないなと思う。まぁそれはおいといて、舞台と役者もクリエイターの範囲だろう。フリーナなんかはまさに舞台女優だった。彼女の神の目は役目を終えて、ただのフリーナとして舞台に立ったときに恐らくヌヴィレットが授けたものだろうし。

 最新魔神任務はやった?公式が出したレリルの立ち絵にはヴェズルフェルニルからのコメントがある。彼は世界の理をも揺るがす。はじまりがただの凡人(とするかの解釈は本編内でも議論されていたが)だった彼は、執念によって今の姿になった。アビスはクリエイティブの助けをしただろうけど、アビスのクリエイティブの方向性は過激だ。でも運命の中で、彼本人の願いが達せられたかはともかく、彼はナドクライを脅かすだけの力を得て、そしてそこに到達するための時間を経ている。

 運命に抗うことは物語を生む。それを覆さなくとも。覆すことを選ばなくとも。

◆夏イベ 子供のための夏休み

 俺はプレイして1年の旅人だから、シムランカがはじめての夏イベだった。おもちゃがモチーフの世界観はげんしんの対象年齢が低めにとられていることを含めてもなかなか面白いデザインだった。知育玩具の世界だからね。

 このゲームは子どもを大事にしている。というか、子どもという時期に思うところがかなりある。優秀な未来のクリエイターが想像力を育む大事な時期だからだろう。おさかなどかーんのクレーちゃんはいつも反省室に入れられてしまうけれど、彼女の独創性は非常に優れていて、周りのひとも彼女の感性を大事にしている。そんな彼女の母親を起点にした夏イベは、たぶん全体的に子どもの夏休みの思い出がテーマになっている。もちろん、大人にとってはリフレッシュのバカンスだ。たまにはそうやって童心にかえったりすることでまた新しいアイデアに溢れたりもするし、子どもは常に最先端の生き物でもある。クリエイティブに関わるなら、まさに子どもは一番大事な存在だ。

 子どもの育つ家もまた大事な存在だ。家の話もげんしんの十八番だが、こちらは恐らく「旅」にかかっていて、でも旅の終着点は家だし、家とはただ屋根のある建物のことを指さない。家族のいるところだ。家族ってなんだ?いろんな家族が提示されている。血の繋がった肉親であることも、ないこともある。

 どのような形であれ、帰宅した先で物語る、思い出は新しい日々への燃料になる。クリエイティブな活動は常に未来を見据えるから、思い出はその力になるよという話だ。小さい頃読んだ童話は大事な物語になるし、大きくなると新たな発見や思うところのあるものにもある。子ども時代は大事にすべきだ、大人もみなかつては子どもだったのだし、キャラストには彼らがどうしてそういうひとになるに至ったのかがよく描かれている。プレイアブルキャラには非常に若い面々が連なるし、そうでないものも等しく未来を作るものとしてそこにいる。

◆まとめ

 最近星々の幻境が追加されて、まぁこのコンテンツ自体にはいろいろ思うことはあるだろうし遊んだり遊ばなかったりはあるとはおもうが、これが実装されたこと自体はなんかこんなふうに考えていたから妙な納得感があった。相変わらずげんしんはへんなゲームだ。へんだけど、やりたいことはなんとなくわかるような、わかってないかもしれないような。まぁ俺が楽しくプレイしてることが伝わればよいなと思いながらこれをかいている。みんなも楽しくゲームをしよう。ゲームは現実にうまれたひとつの幻想なので。退屈な運命を彩る大事な物語なので。

 

 

@utai_pxm
ゲームと音楽と生活