少し前に雪が降った。雪が降った日の朝って、なんだかわかりませんか。雪が降らない地域で生まれ育った私は、雪というものがあまり身近ではなく、雪が降ると空気が一等冷たくて、外を見る前に、雪だ、と思う。分厚いカーテンを開けて、雪が積もっているのを見て、あまりの寒さにそっと閉めた。遮光カーテンって防寒もできるの?ってくらい、窓際は寒かった。
翌日は快晴、もしかしたらまだ残ってるんじゃないかと思い当たるところへ向かう。

まっさら。そっと足を踏み入れると、さくさくと軽やかな音がする。柔らかくて軽い雪だ。

後先考えずに雪を掴んで手を翳す。快晴、日差しが眩しい。つめたい、どんどん指先が赤くなる。

雪の上で、飛び跳ね、踊る光、

体温で溶けきらない雪が、肌の上に残る。降り注ぐ光で、輪郭が見える。

溶けていく雪と赤くなる肌を眺めて、雪が積もっているところの真ん中で立ちつくしていた。息も白い。

この写真、なんだか山脈みたいだなと思う。世界だな。1時間ほど遊び尽くして、仕事に戻った。いつもより1時間半早く行って良かった。30分かけて冷え切った手を温めていた。
結局、いつまでも雪を見たらはしゃぐし、つららがあったら折る。雪とかなり距離のある人生だからそれが叶っているのかもしれないな。
水に触れているときも思うけど、何か、惑星に触れていると感じるとき、自分の身体の境界を強く感じるし、それが曖昧になる瞬間も感じる。自分の中の何かがなくなったと思ったら戻ってきたり、不思議だ。
そういえば最近、ずっと昔に撮った写真を見返しすことがあった。私にとって、写真は「撮ろうとした」という行為の結果として生まれたものでしかない。写真そのものに何か意味があるかと言われると難しい。撮ることで、忘れても平気、と自分の中を軽くしていく。撮ることで、別れや喪失を受け入れていく。その瞬間との別れ、もう戻らない時間、忘れていく/薄れていく記憶との別離を。それでもいつかの私が、どこかで、灯火のように持ち続けているのかもしれない。あの時の私が撮ったということや、その結果として生まれた写真を。
様々なことを考えるけれど、これからも撮り続けていくだろうと確信めいたものがあるのは、私が手放していけるように、だろうな。
いつでも、どこにでも、行くことができるように。