フィルムカメラでも写真を撮り始めて2年ほど経った。最初は友人から譲ってもらったカメラ、次に自分で買ったもの。最近はそのどちらかに加え、祖父のカメラを使っている。
去年の1月、部屋の掃除をしていたら60年ほど前に祖父が手にしていたフィルムカメラが押入れの隅で眠っていたのを発見した。シャッターは切れる。フィルムもちゃんと回ってそう。撮ってみたらなんか暗いけど撮れた。何で暗いんだろうとカメラ屋さんに聞いてみたら、詳しいことはバラさないとわからないけど中で固まっててシャッタースピードと絞りが固定されているとのこと。 重い写ルンですってこと…? 多分そんな感じ。でも写るなら、と祖父のカメラを携えて出かけるようになった。
なにぶん暗く写ってしまうので、パッと明るい写真はほとんどない。それでも、シャドウの部分がやさしくて好きだし、仄かな光を捉えてくれている。祖父はこのカメラで自分の子どもをたくさん撮っていた、と張本人である叔父や母から聞いた。
なんのメンテナンスもしていなかったものだから、いずれ写らなくなる日が来るのかもしれない。そうなったとしても、これからも手元に置いておくつもりだし、今写ってくれているものたちがあるだけで私はとても嬉しい。それに私にとって「撮る」という行為は、「今をうつそうとする試み」という側面がとても大きい。その目で見ようとしたこと、まなざしをむけたこと、それだけで本当はいいのかもしれない。それでも撮り続ける理由なんて、今までの私とこれからの私のため、でしかない。私にとっては。「今」の私がいつかの私に投げかける答えだったり、問いだったり、そういうものなんだと思う。
祖父のカメラと日々をすごすこと。覚えていることも忘れていることも全てひっくるめて、私が大切にしてきたものやまたいつかと手放してきたものたちが、今とこれからの生活の一片になり得ること。このカメラと共にある時間がそう信じさせてくれた。十分すぎるね。