と、いうことで始めてまいります。
何を?多分自分の中に溢れている言葉になりきらない言葉たちを外に流すという行為を、です。言葉にすることが全てではないにしろ、言葉を取り戻すため、言葉に出会うため、私は私を書き記していきたいと思っています。
私のこと
るり、という名前でここでは生きています。
本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたり考えたり話したり書いたりすることが好きです。時々写真も撮ります。加えて旅と猫と珈琲とお酒とそのほか美味しいものなら何でも好き、そしてこの世に存在するすべての差別に反対しているクィアです。
SOGIはノンバイナリーアセクシュアルです。大切な人たちの重要な他者でありたいと常々思っています。最近少しずつクィアの方々と繋がる機会に飛び込めるようになってきて、お互いの生活や思いの一端に触れられるようになってきて、とても嬉しいです。
自身がクィアであると口にできるようになったのは実は3年ほど前と最近のことです。それまで(小中高大)でも生きづらさというものは確かにあって、言葉に出会っていないが故に今よりも苦しんでいました。だから、目を背けたかったのだと思います。誰かに否定されること、気のせいだと笑われること、どれも当時の私にとっては怖くて、情報を集めることそれ自体にも勇気が必要でした。
ひとつのきっかけは大学院でクィアスタディーズをやっている友人に出会ったこと。友人と言葉を交わしともに本を読んでいくにつれ、少しずつ言葉を取り戻すことに前向きになれたのだと思います。
写真を撮る、ということ
10年弱カメラで写真を撮り続けています。撮り続ける理由は様々あるけれど、忘れても良いと思えるから、かも。良いことも、そうでないことも、何もかも全て抱えて生きてはいけないなと感じています。覚えていること、覚えていないこと、それ自体が重要なのではないのではないかな、と。覚えていないからといって、積み重ねてきたものたちが価値をなくしてしまうなんてことにはならないし。撮ることは、今を、今だった瞬間になっても残しておこうとした試みでもあると思うのです。
世界のすみっこでうたたね のこと
「世界のすみっこでうたたね」という言葉から広がっていく写真たちを撮ろうとしています。「世界のすみっこ」という場所は実際にここ、と決まっているわけではありません。私が私であることを棄損されない場所、安心できる場所(と私が考えている)のことで、無防備に「うたたね」をする/ができるということ。 撮る私自身にとっても、私の写真と向き合ってくれる人たちにとっても、そうありたいです。
生活のこと
私たちの生活は地続きであるということ、眠れず迎えたあの朝も、ほろ酔いでスキップしながら帰宅したあの夜も、涙で前が見えなくなったあの明け方も、たくさんの瞬間が積み重なって地続きになっているということ。誰かとの生活が交差したり並走したり、そうやってこれからもきっと生活は続いていきます。続けていくしかないのだろうし。そうであるならば、自分の生活を信じ続けることで、きっと抗っていける。そう信じています。
