書くこと、それに伴う生きることなど

るり
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ずっとずっと、自分が書く文章は同じところをぐるぐるとしている気がして、どうしたらいいんだろうなって思っていた。書いていることが、少し言葉が違うだけで毎回毎回おんなじな気がして。でも、「石としてある 第1号」に載せる原稿を執筆するにあたり、自分の中でぐるぐるとめぐり続けているものが何なのか、少しずつ解きほぐすみたいに向き合っていくことができたし、私がまず書きたいこと、誰かに届いてほしいと思っているものが「これ」なんだなって気付くことができた。

どんなことでも言葉にするという行為には責任が伴う。特に私にとっては、自分のことについて、より生身に近い位置で文章を書く(そして本という形に残す≒誰かの目に触れる)ことは怖いなと思っていたし、今でもその怖さがなくなったわけではない。本という形にならなくても、ここで読まれた回数が増えたのを確認すると、ちょっと怖くなる。誰かに届いたかもという思いと、誰かに読まれているんだという視線を感じて。(読まれても平気なものを載せているし、誰かに読んでもらえたらなと思ってはいるけれど、実際そうなるとちょっとそわそわしてしまうみたいな)

それでも、怖い=書きたくない、ではなくて、そういう怖さごと引きずって、これからも書き続けて残していけたらいいなと思っている。怖いと思うことを切り捨てて覚悟を決めること、別にできなくたっていい。というか私はやろうと思ってもできない。スパッと何かを切り離して、置いて、歩いていくことはできない性分だし。結局置いていったように見えていてもなんだかんだどこかで繋がっていてまた巡り合ったりもするし、また会ったな〜って片手上げて挨拶するんだよ。私にとって、書くって多分そういうこと。

きっと思い出せなくなっていることも気付かぬうちに忘れてしまったこともたくさんたくさん、たくさんあるんだろう。でも、大丈夫だってなんとなく思っている。だって、私が忘れてしまったとしても、私がその場にいたということも書いたり読んだり話したり考えたりしてきたことの事実がなくなったわけではないから。

自分を傷つけてきたことはなくならないし、きっとこれからも、自分のことを傷つけることもあるだろうと思う。自分のことや自分に近いものについて書き続けるなら、自分の傷や自分に刺さった棘に嫌でも触れたり見つめたりする時が来る(少なくとも私はそういう書き方をしがちだなと思っている)。

その度に自分を傷つけたことを後悔したり、仕方がなかったなと思ったり、どうにでもなれと投げやりになったりするのだろう。生きることが嫌で嫌で仕方ない時間も、起きて自分がまだ息を繋いでいることに絶望する朝も、今世ではもう会うことが叶わない友人たちを羨んでしまう夜もきっと変わらずにやってくる。

でも今のところはそれでいいのだと思う。生きることに前向きになれないままで、傷だらけでも、私は私のままで、読んで書いて話して考えて、生活を繋いでいくんだって分かっているから。そうやって積み重ねたり、時々全部崩して大の字になったり、また置いてみたり、隣の人や遠くにいる人たちと積み重ねるものをシェアしてみたりして、なんとか生きていくんで。

長野県立美術館前の広場。吹き出した水のところに虹がかかっているように見える写真
アスファルトの上にある氷の写真
新幹線からの車窓。遠くに山々、手前に建物。左端が感光していて白い。
海面から岩の頭だけが出ている写真
窓から朝の光がぼんやり差し込んでいる写真

@utatane
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