最近二次創作絵に気合いが入っている。頑張ったところをインターネットの人がほめてくれておだっている。ありがとうございます。ドヤ。
ドヤ……? 「俺の絵」……?
あたしのドキドキ のち 誰だお前
Blueskyに絵を上げて、しばらくは心臓が、いや全身が悲鳴をあげていた。いいねやリポストの通知に集中できないほど心がドキドキして、堪らなかった。ナントカ欲やら、カントカ欲やらが、ほとばしる。「絵を認めてぇ! 絵を受け入れてぇ!」と言っていた。
あるあるだよねぇ〜。
かわって、翌朝。上げた絵そのものや、人が送ってくれた反応を見る。そして思う。
「俺描いてないよこれ!!」
おっと。記憶喪失か? 俺が俺で完成させた感触は消え、そこにはただ絵が載っており、固定ポストになっていた。どうやらこの心身の描いた絵らしい。白々しいほど自然現象。
私たちは対象や行為に没頭して夢中で、ペンと合体して描くだろう。過集中のように。だから忘れたのか? 全部……。まあそれもあるが……深掘りしていこう。
絵のなかの記憶

……思い出してきた。この左の靴下の外側を光でなぞった記憶……。思い出してきた。胸の真ん中の目玉の中にカラスみたいな何かを描き込んだ記憶。塗り残しを潰す記憶。閉じらさった目を開けさせてみた(けどアンドゥした)記憶。髪の毛先を丸めた記憶。
絵には記憶が流れている。記録ではない。絵がもつ記憶は、私たちの心身を優しく撫で、ときに胸を激しく打つ。
「ヘキ〜。」「遊びに満ちているねぇ〜。」「うおお!」「LOVE!」
そして、翌朝。撫でたとこも打ったとこもすっかり凪いで、何気ともない日々に変わっていた。
だけどふたたび絵を見ると、いろいろあったのを思い出す。絵には、記憶が流れているから。ああ、思い出す……「俺」はこの絵を描いていない。
で、誰が描いたんだよ?
してん
絵には記憶が流れている。膨大な記憶が。
「この自然の心身」を支点、「原作やインターネットメイトの熱量、あるいは、この世界のからみあったすべて」を力点、「お絵描きソフト」を作用点として(合ってる?笑)、力が「この心身」を介して作用した結果、一枚の絵が生じる。
だから、「俺の絵」なんて存在しないんだろう。「俺」、いや「心身」がここにあるのは大事なことなんだけど、それは支点のようなものなんだ、いや支点でしかないんだろう、きっと。でも支点も大事だろう? 力点や作用点があったとしても、支点もなかったらこの一枚の絵はいまごろ生じていないのだから。
でも、そうじゃないかもしれないね。どうか、違う視点からも世界を見せてほしい。
あ!
おわり。