終わりよければ全てよし

青子
·

幼い頃から何度も耳にしてきたこの言葉、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲から来ているらしい。てっきり日本の落語か何かが始まりだと思い込んでいたので新年早々ためになった。(もしかしなくても有名なのだろう。私がただ知らなかっただけで。)

新年と言ってももう6日目。明日には七草。しかし病み上がりの私にとって、床を這い出た昨日が新年だ。鼻が詰まり喉は痛み全身の筋力が落ち、産まれたての小鹿のような状態ではあるけれど、ようやく訪れた回復。非常にめでたい。

私は縁起というものを気にする。普段は面倒くさがりで何事も成るように成るというか、むしろ成れと適当に念じて生きている。しかし何かの「始まり」「始める」ことだけは違った。新しいノートの1ページ目、1行目の1文字目を、いつも綺麗な字で書こうとする。それはまるで何かの儀式で、小学生の時から続いてきた儀式はいつしか新年を迎える際の心得に変わった。「一年の計は元旦にあり」「正月三が日の過ごし方で一年が決まる」、方方で昔から聞いてきた文言。つまりは何事も最初が肝心であるということ。

私は今年、そのスタートダッシュに失敗した。元日からインフルエンザを発症してしまった。正しくは先に罹っていた夫から菌を貰い、感染した。

年末の30日にともに蟹を食べた夫が「何だか熱がある」とカニフォークを手にしたまま呟いた時は、まるで大したことのない素振りで空返事をした。蟹は人が幸せな時に食べるものだ。夫のそれは疲労からきたもので、前日に夜遅くまで飲み歩いたせいだと揶揄した。私たちは会話もおざなりに蟹を食べ続け、心の内に生まれた嫌な予感を「美味しい」で打ち消した。2023年は蟹が豊漁だった。

その夜、夫が熱を出した。「やっぱりおかしい」と測り直した体温計は39°Cの高熱をたたき出した。どう考えてもただの風邪ではない。私たち夫婦の脳裏を、あの恐ろしい3文字の言葉がよぎる。しかしあの時とはどうも様子の異なる症状に、もしかしたら7文字のほうかもしれないと意見が合った。微かに見えた希望とは名ばかりの絶望。

11月から立てていた年始の予定は全て吹き飛び、甲斐甲斐しく夫の看病に勤しんでいた私も程なくして高熱に倒れた。新年の挨拶をスマホの中で交わした旧友たちからは心配と励ましの声をもらい、私たち夫婦は三が日の間こんこんと眠り続けた。三が日を過ぎても眠り続けた。そして今に至る。

何とも幸先の悪い2024年の始まりだったが、常日頃の健康と幸福に感謝する良いきっかけになった。正月参拝で神に祈るより、書き初めで筆を走らせるより、深く心と体に刻まれた。人間、健康が一番だ。例えスタートダッシュに失敗したとしても、後からその失敗を取り戻せばいい。

そして思い出す。「始まり」「始める」時に気にする割には、結局いつも中弛みして最後は慌てて帳尻合わせをし、事なきを得ていると。全く問題なかった。

終わりよければ全てよし、私の好きな言葉です。

---