抜きん出たマイノリティのみが活躍できる社会は公正ではない

蟒蛇
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ブルースカイのTLで、「平等というのは、女性やマイノリティが「素晴らしい作品」を作れることではなく、(男性やマジョリティ同様)くだらない作品を沢山作れることのはずだよな、と思う」という投稿を見かけた。

過去にまったく同じことを考えながら書いた、ずっとメモ帳に眠らせたままだった文章があるので、見かけついでに今日はそれを放出しようと思う。


あらゆる社会的マイノリティたちは、同じ社会の中で生活しているのに存在しないことにされ、フィクションの中でも不自然に存在を消されたり、多数派のための都合のいい存在や笑いものとしてしか扱われてこなかったという、数百年後に人類史を引きで見た時に超絶不条理の時代と評価されるであろうトンデモ絶望期を長いこと生きてきた。

そんな超絶不条理を理不尽に押しつけられてきたマイノリティが失った自尊心を取り戻すための、ただ自分と同じような特徴を持ったキャラクターが出てくるだけの平凡な作品がたくさん作られることには、明確に意義があると自分は思う。

自分と同じような特徴を持ったキャラクターが普通に出てくるだけの平凡な作品というのは、何もマイノリティだけが特別に享受しているものじゃない。これまでもこれからも、マジョリティ側の人間であれば強く要望しなくたって湯水のように浴びまくれるものだ。シスヘテロ健常男性、特に白人(国内であれば日本生まれの日本人)のそれが主人公に据えられた、それほど面白くない作品なんて星の数ほどあるだろう。

マイノリティにだってそういう余白・あそびは必要だ。そういった余白・あそびがあるからこそ、それらと比して名作と呼ばれる抜きん出た作品も生まれ、ジャンル全体が豊かになっていく。

マイノリティにスポットライトが当たった作品にだけ常に最高潮の面白さを求めるのはフェアじゃない。我々のお眼鏡にもかなう作品であれば認めてしんぜよう、余を喜ばせてみせよ! などとでも言いたげなマジョリティの無自覚な傲慢さには、心の底からウンザリしている。何なんだアンタたちは。エンタメの番人気取りか。

ただただ作品の中に自分を感じたいマイノリティのために作られた、脚本の新鮮さやクオリティ<マイノリティ描写な作品に対して「話がつまらない」「クオリティがイマイチ」と吐き捨てるのは、サッカーファンが野球の試合を見ながら「ボールを手で触るなんてどうかしてる」と言うくらいズレたことだと自分は思っている。

それにそもそもの話、今までの歴史の中で形作られてきた「エンタメの面白さ」って、それ自体がマジョリティの尺度で構成された偏ったものだったりはしないだろうか。例えば自分は、少女や女性が好むものは二流・つまらないとされる空気をビシバシと感じながら暗い思春期を過ごしてきたけれど、昨今では批評する者の属性の偏りが評価そのものの偏りを生むという考え方は(昔よりは)一般的になってきたように思う。そういった、今まで誰によって面白い・つまらないを評価されてきたのかという視点も忘れてはならない。

ただ、社会構造とはそこに住むすべての人間に影響を与えるものだ。偏りが当たり前とされる中で育ったことで、偏った状態に違和感を感じなくなってしまったマイノリティも中にはいるだろう。偏った状態が当たり前とされていた期間を長く生きた人たちは、特にその傾向が強いかもしれない。

これは本人のせいではないので、つまらないと感じるマイノリティ作品も楽しめるようになれ! とは言わない。つまらないと感じること自体が差別的だとも思わない。ただ、作品の捉え方と感想の書き方、そしてそれをどのような場所にお披露目するのかなどの文脈によっては、マイノリティの自由を奪ったり傷つけることに加担してしまうかもしれないという自覚を一欠片くらいは持っていてほしいなと思う。

@uwabami
オタクィアフェミニスト。社会やら趣味やら雑多に語ってます。 詳細なプロフィールや語りの傾向は固定記事にて。