つい先日、久しぶりに自分が憧れている分野で活躍している某お方が実は同世代だったという気づきにぶち当たり、古傷がじくじくと痛んでしまいました。自分ももう30になるので同世代の活躍者なんて珍しい存在でもなんでもないのに、いつになったらこの劣等感を飼い慣らせるようになるんでしょうね…… 自分ではすでに克服したつもりでいたので、自分自身の心の反応に驚いてしまいました。
自分は21になる年にうつ症状で大学をドロップアウトして、30になる今年までの間に数ヶ月の短期バイトをした以外は社会的な活動は何もしておらず、20代をほぼまるごと引きこもりとして生きてきました。そして、10代は10代で常に自己肯定力をゴリゴリに削られ続けるような、「普通」とは言い難い時間を過ごしてきました。
他人の人生に責任を取らなくて済む立場の人たちは「まだ若いんだから何とでもなる」「人生まだまだこれから」と口々に言うけれど、10代20代の時にその年齢の人間が当然経験するものとされているあらゆる「下積み」をすべてこなしてきた人が迎える30代と、それらをほとんど取りこぼしてきてしまった人が迎える30代は、残念ながら同質のものになるとは言い難いと思います。「みんな一緒」が強く求められる日本では特に。
それでも、学生時代に比べたら他者との比較や激しい自己嫌悪に陥る頻度は格段に減りました。引きこもりとして物理的に安全な場所で過ごすうちに、社会生活の中で受けてきたおびただしい数の傷がようやく塞がってきたのだと思います。もちろん、引きこもり状態だと未来への不安や葛藤と常に闘い続けることになるので心理的な安全は保たれていませんが、それでも社会生活の中でボコボコにされるよりは遥かにマシだったんですね。結果的には。
そう考えると、引きこもりという選択は自分が延命するために必要な措置だったということになります。でもそれはあくまで応急処置や対処療法的なものであって、その年齢の社会生活の中で得やすい経験は何一つ得られないことと引き換えの諸刃の剣ですし、止まってしまっていた時間を取り戻すことは当然できません。結局どこへ転んでも苦しむことは避けられないんですよね。
だからこそ、似たような立場の者たちが同じような苦しみを経験しないように道をならす社会運動へのコミットは、自分の尊厳が回復されるためにも必要なことなんだなとしみじみ思います。