桜の下の物乞い

蟒蛇
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蟒蛇の自宅の道路を挟んだ向かい側にはとある施設があり、その敷地の中には桜が数本植えてあるため、実は自室の窓から花見ができます。右翼が好んで使うモチーフのため敬遠されがちな桜ですが、ピンクが好きなのもあってか花自体は綺麗だなと思うので、この環境はわりと気に入っています。

そんな桜が満開だった先月末ごろのこと。パートに向かう前の母に「外で花見してるオジサンがいるよ」と笑いながら言われ、道端で花見なんて物好きな人もいたもんだなぁと思いながら窓の外を覗いてみました。自宅の向かいから少しだけ離れた場所で、小さなシートを敷いて胡座をかいているオジサンがいました。でも、何だか様子が変でした。

そのオジサンは食べ物や飲み物を持っているわけでもなく、ただただシートの上にぼーっと座っていたんです。そして、全然桜の方を見ていません。あれは本当に花見をしに来た人なのか……? 疑問に思い目を凝らしてみると、オジサンの横には小さなバケツのようなものが置いてあることに気づきました。

瞬間、自分の頭の中で点在している知識の粒が結びつきました。もしかして、物乞いでは。コロナ禍以降の困窮や物価高のニュースが脳内を駆け巡り、咄嗟にそう思いました。正直、狼狽えました。半ばパニックになりながらブラウザの検索バーに「物乞い」と打ち込んで、画像検索でオジサンの様子と出てきた画像の数々を見比べてしまいました。今までの人生で物乞いをする人を見たことがなかったため、本当に自分の中の勝手なイメージと現実のかれらが同じ様子なのかを確かめてしまいました。

次に思ったのは、声をかけた方がいいのだろうか? ということでした。幸い(では全然ないけれど)困窮予備軍の引きこもりである自分は、困った時に頼れそうな社会的なリソースや相談先などをいくつか知っていました。でも、脳裏には過去に読んだ困窮者支援のお話が浮かんできました。路上生活者へのアウトリーチ活動をしている支援者の方いわく、中高年男性へのアプローチは特に難しく、長年染みついたウィークネスフォビアやマチズモの影響か、声をかけても支援を拒否する人が多いのだとか。

日常のコミュニケーションすら自信のないド素人の小娘が声をかけたところで、よくて無視されるか、下手したら冷やかしだと思われて怒鳴られたり殴られたりするかもしれない……そんな不安と、何もできない情けない自分との板挟みになりながら、しばらくベッドの上で悩みました。ずっと酷い動悸がしていました。

それから20分も経たないくらいの時だったと思います。そっと窓の外を覗いてみると、オジサンは跡形もなく消えていました。単に場所を移動したのか、今日は諦めたのか、はたまた誰かが通報したのか。真相は分かりませんが、気づいたらいなくなっていました。

支援に繋ぐことまではできなくても、せめて出せるだけのお金を持っていくべきだったんじゃないか? そんな罪悪感に苛まれながらも、安堵してしまった自分が憎いです。そもそも物乞いであるということ自体が早とちりである可能性もあります。ですが、エアコンなしで生きられない気候変動に加えて電気代の高騰、上がり続ける物価に、収束しそうにない感染症……10万人も住んでいる市なのだから、それなりの数の困窮者がいても不思議ではありませんし、すぐに支援に繋がれる人ばかりでもないでしょう。

今朝、その日のことを不意に思い出し、母に「あの日の桜の下にいたオジサン、花見じゃなくて物乞いだったのかもしれないよ、バケツ持ってたし」と言ってみました。母は一瞬驚いたあと、「物乞いだなんてそんな発想自体まったくなかった」と言いました。

これだけ経済格差と失政が問題になっていても、「普通の人生」を送れていて能動的に情報を追っていない人にとって困窮は思いつきもしないことなのかと、分かってはいたけれどさらに悲しくなりました。

あのオジサンを見た時の自分の動揺は、もちろん生まれて初めて物乞いをしている(かもしれない)人を目にしたからというのもありますが、未来の自分と重なってしまったからというのもあるかもしれません。物乞いという存在をまったく想定せずに生活できている母は、自分の娘もかれらとそう遠くはない距離にいる事実に気づく日は来るんでしょうか。

@uwabami
オタクィアフェミニスト。社会やら趣味やら雑多に語ってます。 詳細なプロフィールや語りの傾向は固定記事にて。