※2023/09/06に書いたものを加筆修正した文章です。
「それが正論であることは理解しているけど何らかの理由で賛同・実行できずに二の足踏んでる人」を理解するための材料が己の経験の中にもないだろうか? と考えていたのだけど、学生時代に周りの大人たちによく言われた「間違いを指摘できるのが本当の友だちだ、それで関係が切れてしまったとしたらその程度の間柄だったということだ(だから気にするな)」という言葉を、正論であることは認識していたにも関わらずなかなか実行することができなかったことを思い出した。
身近な者の過ちを指摘するという行為は、日本の事なかれ主義や隠蔽体質、そしてそれに付随する村八分と相性が最悪だ。
しかも学校という狭く凝り固まった空間でそれを実行することは、大人以上に難易度が高い。失敗した時に自分で逃げ道を作るのが難しいからだ。
おまけに自分のような人間関係やコミュニケーションに問題を抱えていた人間は、トラブルへの対処能力がそもそも低く、新しい人間関係を築くのにもかなりの時間とエネルギーを要するので、たとえ客観的に見て歪なものだったとしても今ある関係にしがみついてしまいやすい。
当時の身近な大人たちは、そういった子ども側の複雑な事情も踏まえた上で言っているようにはどうしても思えなかった。
結果、「言葉自体は確かに正論だけど、簡単に言ってくれるなよ……アンタらのいう「その程度の間柄」を手に入れることにすら凄まじい労力を要する人間の存在なんてまったく見えてないんだろうな……ケッ」と不貞腐れていた。
もちろん正論であることは間違いないので、誰もが壁を感じずにその言葉を実行できたら確かに社会はよくなると思う。でも、現状壁を感じずに誰もが実行できる環境が整っているとは言えない。
チャレンジして上手くいかなかった時に気軽に相談できる仕組みとか、そういったチャレンジがなぜ重要なのかという詳細な説明とか、そういうのをぜんぶすっ飛ばして精神論だけで正しい行動をさせようとするのは無理があると思う。
そもそも大人から子どもへの支配がまかり通っている学校という場所は、支援するどころか逆にチャレンジを阻害する構造になっているんじゃなかろうか。抑圧的な構造を維持しながら口では真逆のことをさせようとするのは、相手に対して負荷をかけるだけの不誠実な行いだと思う。