自分は幼少期からの経験と今現在の状態と、本や記事などで得た情報群からASD傾向があるんじゃないかと感じている。引きこもりで基礎疾患持ちなので公共交通機関を使うのが難しく、病院選びに難航していてまだ診断はされていないのだけど。
自分がASDなんじゃないかと気づき始めたのは成人してからで、そもそも未成年の時は発達障害という言葉すら知らなかった。そして発達障害という言葉を知ってからもしばらくはどうやら自分には無関係なものだろうと思っていた。自分がよく目にした発達障害についての記事や漫画で紹介されていたのは、大抵の場合ADHDの方だったからだ。
自分の人間社会でのままならなさは一体なんだ? なぜ自分だけがみんな当然のようにできていることが一向にできるようにならないのか? そういう疑問や苦しみは10代のころから感じていて、そんな中で最初に発達障害という言葉を聞いた時、ピンときて症状やら体験談やらを調べまくった。でも、当てはまるようで当てはまらないような、何だか微妙な手応えだった。ADHDの情報にしかたどり着けていなかったせいで。
その後さらにしばらく経ったあと、どうやら発達障害と呼ばれるものにはADHDの他にASDというものも存在するらしいことを知り、もしや!と思ってまた調べまくった。今度はバチバチに手応えがあった。これじゃねぇか!!?!?となった。出会うまでに時間がかかりすぎて心身はすでにボロクソだった。
ただ、実際にこの予測が合ってるのかどうかは医師に診察してもらわないと分からない。とりあえず今の体調でも通える距離にある、市内の精神科・心療内科を検索してみた。ヒットしたのは大病院の中の精神科が2件、個人クリニックが3件。自分がスムーズに通えそうなのはこの中の3件くらいなんだけど、発達障害の診断ができるのはさらにその中の1件だけのよう。
それにしても、市内のほとんどのメンタルクリニックがGoogleレビュー評価☆3未満なのがキツい。唯一診断ができるところにとりあえず行ってみようと思ってるけど、まだ一歩を踏み出せていない。
……と、ここまでが長すぎる余談で、ここからがタイトルに書いた内容の話になる。
人間社会ではコミュニケーション、特に口頭コミュニケーションが人間として社会生活を営むための最低限のスキルとされていて、それが上手くできない人間はトラブルの種として避けられたり煙たがられたり居場所を失ったりする。
そしてこの流れは、コミュニケーションができる「一般人」が心地よく過ごしたり心身を守るための当然の措置とされている。少なくとも自分の目には今現在そういうふうにシステム構築されているように見える。
でも、そのコミュニケーションの破綻はADHDやASDなどの消すことができない特性が原因となっている場合が多々ある。この場合、コミュニケーションが下手クソな人間は孤立して当然という価値観は、差別的な考えであると捉えていいんだろうか。
例えば、「職場に〇〇な人がいて、面倒だしみんな困ってるんだよね」「それは普通□□と思って当たり前だし、身を守るためにもできるだけ関わらない方がいいんじゃない?」というような会話をしている人がいて、〇〇が非定型発達者によく見られる特徴で□□が典型的な定型発達者の思考形態だったりした時、これって差別的だと言えるんだろうか。ケースバイケース? じゃあどこまでの範囲が該当ケースなんだろうか。分からない。
具体的な実体験を挙げると、先日聴いたPodcastの中で、「自分は性的少数者のラベルを都合のいいように使っているだけで本当は性的少数者じゃないんじゃないかとよく分からなくなる時がある」(要約)といったような相談に対して、「人間はそういう曖昧性を含む存在だし、自分が生きやすいと感じられるのなら都合よくラベルを使ってもいい」(要約)とスピーカーの方が回答していた。
問題はその後で、スピーカーの方が「このお手紙を読んでいてグレタ・トゥーンベリさんのことを思い出した」と言い、「ああいう猪突猛進なやり方はどうなのか」「ああいう人たちはただ他者を批判したいだけなので気にしなくていい」「自分たちは曖昧性を大事にする人たちの味方だから」というふうに続けたのだ。
ご存知の方もいるかもしれないが、グレタ・トゥーンベリさんはASDを公表している。そして、自身がアクティビストとしてブレずに真っ直ぐ突き進めるのはASDだからこそだろうということも公の場で語っている人だ。
まぁ、だからこそ定型発達の人にとってはイラッとくる発言もあるだろうが、彼女の活動が自国や欧米諸国では一定の評価を得ていることもまた事実だ。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/greta-thunberg_jp_5d8acbfde4b08f48f4ac7565
Podcastで語っていた方が彼女の特性を知っているのかは分からない。ただ、個人名を出した上で、その人の特性と深く関係している行動を「ただ批判行為がしたいだけの人」と侮辱的に表現することは、苦言を呈した上で改善が見込まれなければさすがに差別的な発言としてもいいようにも思う。
実は数日前にこちらで書いた「曖昧性を含んだ答えの出ない語り合い」とは、実はこのPodcastのことだったりする。あの時はふわっとした語り方をしたが、自分の怒りの矛先をより明確にするならば、上記のグレタ・トゥーンベリさん(≒ASD特性を持つ者)への侮辱的な発言が凄まじいストレス反応の引き金だったように思う。
定型発達がデフォルトとされているこの社会システムの中で発せられる何気ない言葉の数々に、当事者やそれに近い特性を持つ者はしっかりと傷ついているし、強いストレスから心身に不調を抱えたりもしている。あまりにも当たり前として染み込みすぎていて相手がリベラル思想であっても指摘するのが本当に難しいが、だからといってこのままでいいとは決して思わない。非定型発達者だけが一方的に「改善」を求められ続け、それが上手くいかなければ孤立して当然だとする考え方はやはり理不尽だと感じる。
自分が出した例の他にもこういう場面はたくさんあって、少なくない数の非定型発達者たちが傷を負ったり言葉を奪われたり居場所を失ったりしているんだろうな……
ただ、非定型発達に見られる特性は、定型発達の人には一つも表れないというわけではない。そして、同じ非定型発達傾向のある人の中でも社会的困難を抱えていると判断されなければ診断がつかないこともあるだろうし、特性は見られるが障害としてハッキリと診断を下すにはいたらないグレーゾーンというものもある。そのあたりの複雑なグラデーションが、どんな場面のどの発言を差別的と判断するかの線引きを難しくさせている面もある。
とりあえず自分が気づいた範囲で小さな行動をすることに意味があるような気がしているので、時間がかかるかもしれないけどPodcastのスピーカーさんにはお手紙を送ってみようと思う。幸い、リスナーからのお手紙を歓迎している人たちだ。
最後に一冊の本を紹介したい。冒頭で語った、自分はASDである可能性が高いと気づくキッカケになった本の一つである『自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界 幼児期から老年期まで』だ。
この本は一言でいうと、「書いた覚えのない自分自身のプロフィール」という感じだった。活字があまり得意でない自分があっという間に読み終わってしまった。自分はもしかして……?とほんの少しでも感じている方がいれば、ぜひ読んでみてほしい。ブックオフでも2500円くらいするのがちょっと難点だけど。。
https://item.rakuten.co.jp/book/16850881/?variantId=16850881&scid=wi_ich_iphoneapp_item_share