※途中、様々な被差別属性への具体的な差別発言の例を載せています。
障害者に対して「社会に甘えている」だの「コスパの悪い存在」だの言う人間たちのいう「社会」「コスパ」って何を指すんだろうか。そういうことを宣う者たちの中に、社会がどう作られ、運営され、維持されており、「健常者」と「障害者」の生活は具体的に何がどう異なるものなのか、きちんと説明できる者はいったい何人くらいいるんだろうか。
法律、教育内容、公共施設、医療、福祉……つまり「社会」と呼ばれるこれらのシステムは、当然ながら人間自身が作り、運営しているものだ。ではこれらが作られる時、どういう人たちが集まって話し合い、誰が最終的なゴーサインを出しているのか。もっと身近な広義の意味での「社会」には、企業や家族、交友関係なども含まれるだろう。
ここまでに挙げたものの構成員の中で、自分が知っている、あるいは世間一般で名が知られている「障害者」を、何人くらい挙げることができるだろうか。主に社会システムを作り、運営している者って誰だろう。現状、そのほとんどが「健常者」とされる人たちなんじゃないか。
「健常者」側の人間は、どれくらい「障害者」のリアルな生活を知っているだろう。普通の生活とされるものを営むのに何が足りなくて、どんなことに困っていて、それらを埋めるのにどれくらいの時間とお金がかかるのか。まとまった文章でハッキリと答えられる「健常者」は何割くらいいるのだろう。よく知りもしない「障害者」が甘えているとか楽をしているとかって、どうしてそんなことを簡単に言い切れてしまうのか。
「障害者」の実態をよく知らない「健常者」たち。そんな「健常者」たちが主なメンバーとして作り上げている社会で、たくさんの困難を抱えさせられる「障害者」たち。そんな状況だから、自分たちが何にどれくらい困っているのかわざわざ訴えなければならない。
異議申し立て、デモ、表現活動、投票行動……これらをはじめとする様々な訴え方がある。声を大にして訴えなければ困難は見てもらえず、見てもらえなければ解決はせず、縮こまって生きるしかなくなり、やがて存在自体が透明人間みたいに無視される。「政治的」にならなければ、呆気なく社会に殺されてしまう。
そんな状況に置かれている「障害者」が「コスパが悪い」のは当然のことだろう。自分たちの存在が想定されていない、上手くパフォーマンスが発揮できないシステムの中で生活させられているのだから。(一応書いておくけれど、人間の存在そのものをコスパで語ることは間違いだ。人間はツールやコンテンツではない。そして、産まれ落ちてから息を引き取るまでの間に「コスパが悪い」瞬間が片時たりともない人間など、この世のどこにも存在しない)
社会の話として語るのなら、ここまでの文章の「障害者」の部分は他の被差別属性に、「健常者」の部分は他の社会的強者とされる属性に置き換えられる。人種、国籍、性別、性的指向、性自認、疾患、出自、容姿、年齢、信仰……などなど。属性は違えど、構図はどれも一緒だ。
「障害者は社会に甘えている」「〇〇人は国に帰れ」「ジェンダーギャップは女の努力不足」「同性婚を認めると国が滅びる」「〇〇病は自己責任」「金にならない地方民は切り捨てろ」「ブス、デブ」「高齢者は集団自決しろ」「〇〇教の人間に□□を食わせてみた 笑」…………
己が持つ属性がこの社会の中でたまたま優位である事実にしがみつき、維持しようともがき、少しでもそれが崩されそうになると特権性の上にあぐらをかいて、相手が病もうが死のうがお構い無しにガムシャラに暴れ回る。自分と似た誰かが勝手に作ってくれた、自分という存在が当たり前に想定されている温室の中でふんぞり返りながら。
富豪でなくとも、これといった特技がなくとも、自慢できるような人脈がなくとも、社会的マジョリティであることの利点さえ必死こいて守っていれば「強者」でいられるという蜜の味に酔い潰れた者たち。
「社会に甘えている」というのは、こういう者たちにこそ相応しい言葉なんじゃないか。