冬だなぁ〜雪景色だなぁ〜と窓の外を眺めてぼんやり思いながら、小中高と強制参加させられてきたスキー学習の嫌な記憶がふと蘇ったので、書き捨てて浄化作用(?)を狙う作戦をしてみます。
中学時代、スキー学習で最終日に急斜面(上級者コース?)に無理やり連れて行かれるのがお決まりみたいになっていたのだけど、どこの学校もそうなんだろうか。
自分は運動が苦手なので、スキー学習も経験者の中で下の方のグループに入っていたのだけど、どの教員も最終日に今までのコースから外れて急斜面に連れて行くのがほぼ定番化していた。みんなへっぴり腰になりながら怖々と少しずつ降りて行った記憶がある。
自分は一度あまりにも怖すぎて板をつけた状態では降りられなくなり、外して這いずるようにして降りたのだけど、その時は教員に怒られた挙句途中で置いて行かれたという最悪の思い出があり、今でもスキーが大嫌いだ。プライベートでスキー場に行ったことは一度もないし、今後も行く予定はない。
自分の中学ではこれが当たり前だったので、当時はスキー学習とはこういうものだという認識でいたのだけど、先述したように大嫌いだったし理不尽だと感じていた。プライベートでもよく行く上手い子たちのグループならまだしも、なぜ下手なグループで頼んでもないのにわざわざ急斜面に連れて行って恐怖を植えつけるのかさっぱり分からなかった。
そういえば中学時代に一人だけ、上手くないグループを急斜面に連れて行くことは絶対にしないという強い意思を持った教師がいたのだけど、その理由が、過去に無理やりレベルに合わない急斜面に連れて行った生徒が木に激突して額に裂傷を負う大怪我をしたからだそうだ。……いや、最初からレベルに合わないコースになんて連れて行くなよと思うのだけど、それでも「その時はたまたま運が悪かっただけだ!」と開き直って改めないよりはまだマシと言える……のか?
体育教師が体育教師になるまでの過程をまったく知らないのだけど、親がスポーツに熱心で小さいころから運動に力を入れられる環境で生きてきて、その状況に大きな困難なく馴染むことができ、部活はオール運動部で大学にはスポーツ推薦で入学、周りも似たような境遇の者たちばかりの中で青春時代を過ごした……みたいな人が多いのだろうか。だとしたら頑張っても運動が下手クソな者や苦手な者の気持ちなんて分かるはずがないし、そういう人がプレイヤーとしてではなく教員として活動していたら、そりゃ「運動自体は好きな体育嫌い」が大勢生まれるのも無理ないよなと思う。
自分も高校を卒業して体育必修地獄から解放され、市の体育館で趣味として恋人と卓球ラリーをするようになってから、運動自体はそれほど嫌いじゃないということに初めて気づいた。(スキーは前述の通り、嫌いとか苦手とかではなくトラウマとして記憶に焼きついてしまったので二度とやらないが。金もかかるし。)
体育教師に必要な能力をググってみたところ、運動が得意な子ばかり贔屓しないように全体を見渡せる広い視野とフェアな精神が必要だというようなことが書いてあった。まぁ、当然と言えば当然だ。
実は中学時代、基本的に体育全般が嫌いだった自分がたまたま上手くこなせた競技が一つだけあった。ハードル走だ。別に向いていたわけではなく、あまりにも毎度毎度すべてが下手くそな自分に腹が立ち、フォルムだけでも完璧にしたいと思って保健体育の教科書に載っていた見本の動きを「演じた」ところ、教師の琴線に触れ、人生で最初で最後のお手本役にも抜擢され、他の生徒たちの前で飛んで見せた。
自分はもともと体育が最も苦手な人間だったので、それまで教師に何かを褒められた経験もなく、常に透明人間にされている感覚だった。それがハードル走で教師の態度がガラリと変わり、本番で走り終わった後には今まで向けられたことのないニコニコ笑顔で駆け寄ってきて嬉しそうに記録を見せられた。
正直まったく嬉しくはなかった。褒められたことよりも態度の変容ぶりの方にしか意識が向かず不気味だったし、また他の競技が始まったらいつものように透明人間化することが分かっていたので、何とも言えない気持ちだった。
ググったサイトで見た「運動が得意な子ばかり贔屓しないように全体を見渡せる広い視野とフェアな精神が必要」とは、いったいどれくらい浸透している概念なんだろうか。自分は大学も含め14年ほど学生をしていたので憧れを抱くような素敵な教員とも何名か出会ってきたが、運が悪かったのか何らかのパワーが働いてしまっていたのか、残念ながらその中に体育教師は一人も含まれていない。
もし憧れを抱けるような体育教師に出会っていたら、こんな自分でも体育をここまで嫌いにならずに済んだ可能性があるのだろうか……? 大人になった今でも時々考えてしまう。