夫という人

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旅行から帰ってきたら、夫が玄関にいた。

「渦ちゃん。どうしてもやりたいことがあります」「はあ。なんでしょうか」

玄関で向かい合う夫とわたし。なにこの状況。ふつうこういうときって、テーブルで向かい合ってとか、膝突き合わせてとか、そういうものじゃないの? まあいい。それはまあいい。めずらしく真面目な顔をする夫のほうが問題だ。なにを隠そう夫という人は、家では常に、どこを見ているかわからないカピバラのように、ぐででんのびびんとしている人なのだ。その夫が真面目な顔をしている。これはもしかして、「この壁をぶっ壊して風通しをよくしたい」とか言い出すのでは……? と緊張するわたし。(夫は賢いがゆえに真面目な場面では正論しか言わないのだが、賢いがゆえに常人の想像のななめ上を行く男でもあるので、たまにぶっ飛んだことを言うから気が抜けないである)。

「あのですね」「はいなんですか」

「ウクレレを弾きたい」

……………………ウクレレ??

やはり常人では考えつかないことを言い出した。まあ壁を壊したいとかじゃないだけ常識的な範囲のお願いだったな。しかしウクレレ。またなぜにウクレレ。ジェイク島袋の演奏でも見たんか? 困惑するわたしをよそに、いそいそとスマホを取り出す夫は、困惑するわたしをよそに、いそいそとYouTubeを再生した。スマホから流れ始める情熱大陸ウクレレver. 得意顔の夫。あんたが弾いてるわけじゃないぞ。そして夫は言った。

「これを弾きたい」

弾いてくれよ。勝手に。

わたしが旅行中、あまりにもヒマだったらしい夫。なぜか「そうだ、趣味探そう」と、そうだ、京都行こうのようなことを思い立ったらしい。「渦ちゃんは趣味と呼べるものがあるでしょ。それがちょっと羨ましくて」とはにかむ夫。おお。あなたにも趣味を楽しむという人間らしい心があったのか、と感動するわたし。だって夫という人は、自分の命にかかわることとわたしのこと以外に一切興味を示さないような極端な男なのだ。その男が、趣味! 趣味を持ちたいと言った! 人類の進化をこの目で目撃した気分。その趣味を探したい衝動の行き着いた先がウクレレというところに、なんとも夫らしさを感じる。平凡なわたしは、趣味といえば読書とか運動とか映画とか、そんな凡庸な答えしか浮かばないよ。ウクレレは盲点だったよ。「だからウクレレ買ってください。いま頼めば明日届くから」とルンルンでお願いしてくる夫。しょうがないなあ夫くんは〜。秒でポチりました。だって欲しいって言うから。

翌日早々に届いたウクレレを大事に大事に抱えて開封作業に入った夫は、クリスマスプレゼントをもらった少年のようにワクワクを隠しきれていない様子だった。丁寧とは? と辞書を調べたくなるほどビリビリと包みを破壊していく夫。床に散らばるゴミ。ゴミ、ゴミ、ゴミ。「ちゃんと捨てなさいよ」と釘を刺すわたし。いじわるばあさんみたいでごめんなさいね。でも絶対に散らかすなよ。

箱から出てきたウクレレは想像どおり小さかった。さっそく弦を弾く夫。ボォロロォン。すごい不協和音。どうやらウクレレというやつは、弦の調律が必要らしい。へえ、本格的じゃん。熟練のウクレレ奏者みたいに、目を閉じ耳を澄ませて調律に勤しむ夫。指ひとつでウクレレと会話するオレ、みたいな雰囲気だ。ところで、調律お助けアイテムを使ってるの丸見えですからね。

わたしが不在の間、ずっとYouTubeでウクレレ動画を見ていたらしい夫は、「初心者にはこの曲なんだよ!」とおぼつかない指取りで『日曜日よりの使者』を演奏してくれた。通常の0.3倍速で。「この……まぁ……ま、どこか……とお……く、連れて……って、くれないぃ……か」我が子がはじめて立ち上がりそうな空気下にいる両親は、きっとこんな気分なのだろう。あ、そ、そう、あ……でもまだ、あ、いけ……ないね、うん、あ、そう……じゃないね、うん……。

無事に(放送事故確実な演奏だったが)一曲演奏し終わった夫の顔は、充実感に満ちていた。パズーのような曇りなきまなこ(アシタカか?)で、絶対の自信を持って「どうだった?」と問いかけられ、「下手くそだね」と言える妻が果たしてこの世にいるだろうか。いたらその妻はきっと元がつくのだろう。わたしは元はついていないので、「おお、いいじゃない」と答えましたよ。わたしの返答にご満悦の夫。「たくさん練習して情熱大陸を弾くんだ」。葉加瀬太郎も大喜びだよ。

あれから約3週間。夫のウクレレ技術は順調に成長を遂げている。仕事から帰るたびに「練習の成果聴く?」と近づいてくるのは少々暑苦しいが、夢中で打ち込めるものが見つかったのは妻として喜ばしい。ただそろそろ日曜日の使者からは卒業してはどうだろうか、と思わないでもない。妻はいいかげん飽きたよ。ずっと甲本ヒロトですよ。頭の中にヒロトがいるんだ! と言いたくなるわけです。言っても夫は聞かないんだけども。

さて、「今日の練習の成果、聴く?」と夫がいそいそやってくる時間だ。今夜もまた、観客は1人だけのウクレレリサイタルが始まる。

@uzu_uzu
エッセイ書いてます。いかにくだらなく、いかにアホな内容を提供できるかをまじめに考えています。 ごくたまに創作もするよ。