私の城

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実家に帰ろうと思い立ったことに、特別な理由はなかった。

車で二時間の、近くも遠くもない場所に、私の実家はある。名もない小さな山の裾野の、ちょうど谷底に位置するそこに、曽祖父母の代から住み続け、もう百年近くになるだろうか。東西に長い平屋の、典型的な日本家屋。襖で隔てられた和室が続き、それらに挟まれて伸びる、土壁に囲まれた細長い廊下は昼間でもうす暗い。頭上に備え付けられた蛍光灯もなぜか弱々しく、夜になると明かりをつけても数メートル先が暗闇に呑まれていた。いつもうっすらと寒く、光が届かない隅の方にかすかな陰鬱さが漂う、そんな家で私は育った。

大学に進学すると同時に家を出てから、長い時間が過ぎた。その間に何度か実家に顔は出していたが、いずれも滞在時間は短かく、泊まったことは片手で数える程度しかない。両親と不仲だとか、物理的に距離の問題があるとか、そういうことではない。ただなんとなく、実家にいると居心地の悪さを感じたのだ。むだに広い家は、人の目の届かないどこかの部屋の隅に、私の目には見えない何かがいるような気がして落ち着かなかった。幼いころから漠然と抱いていたその感覚は、大人になって「何かがいるわけではなく、単に古くて寒くて暗いだけ」という答えを出してからも消えることはなかった。

私にとっての実家は、どうにもゆっくりできない場所という存在のまま、ひっそりとそこにあり続けた。帰るたびに古さが目立ち、陰鬱さは増し、両親が毎日掃除をしているはずの廊下にも、澱のようなものが堆積している気がしてしかたがなかった。玄関から入り、生活の気配がある茶の間と台所を通り過ぎ、長い廊下の奥へ奥へと足を進めるたびに強くなっていく違和感は、明るい外から来た者にしかわからない独特の気配だった。「ここはお前の場所ではない」家全体からそう言われているような、家のそこかしこから冷たい視線を浴びせられているような感覚が終始付き纏った。

——谷底にはこの世とあの世の境があり、肉体を失った者たちだけが通る道がある——何かのきっかけでそんな話を聞いてからは、単なる迷信と片付けつつ、頭の片隅には「だからか」という感情が居座り続けた。だからあの家では、見えない何かの存在を感じていたのか、と。忙しさを理由に実家から足が遠のくにつれ、その感覚は私のなかで肥大していった。

そんな私が、数年ぶりに実家に泊まりがけで帰ることに決めたのは、ある冬の日だった。

私の部屋は、私が小学校に上がるタイミングで、母屋の西側にあった雑木林を潰して増設された、日本家屋には不釣り合いな洋風の建物の二階にあった。白い壁にフローリング、一階にある南向きの大きな掃き出し窓からは燦々と太陽の光が入り込み、冬でもあたたかく、温められた空気は二階へ届けられ、母屋とは比べ物にならないほど快適だった。二部屋あるうちの、国道に面した西側が私の部屋で、南と西に窓がありいつでも明るかった。それに加え、母屋から離れていることで、自室にいれば家族の気配も感じずひとり静かに過ごすことができた。

家を出るまで、自室は私の城だった。母屋でふとしたときに感じていた「そこに何かがいる」感覚も、自室にいれば無縁だった。

だから一泊ぐらいなら、と私は思ったのだ。

就寝時間の早い両親がとっくに寝静まった夜、入浴を済ませ自室へ向かうため、持参したわずかな荷物を持って寒い廊下に立った。午後の早い時間に到着し、それからこのタイミングまで、家族の生活の場である台所と茶の間で過ごしていた私は、いつもの居心地の悪さはあったものの、それ以上の不具合を感じることなかった。それなのに、背後の台所の電気を消し、右手側にある脱衣場の電気を消し、頼りになる明かりが廊下を照らす弱い蛍光灯だけになったとたん、ぞわりと背筋が震えた。暗闇のなかから何かが私を見ている。そんな感覚に襲われたのだ。二十メートルほどある長い廊下の先は見えない。真っ暗闇が口を広げて私を待っているようだった。まだ実家に住んでいたころならさほど気にならなかった暗さが、なぜか恐ろしいものに感じてしまう。廊下を抜け、その先にある別棟に足を踏み入れることを拒否されているような、そんな感覚がじわじわと這い上がってくる。そこに何かいるというのか。私ははるか先にある暗闇に目を凝らした。だが何も見えない。そこにはただ静かな闇が広がっている。それだけだった。

ばからしい。暗さにおびえるなんて、子どもじゃあるまいし。自嘲の笑みを浮かべ、私は廊下を歩き出した。スリッパを履いてもなお足下から伝わる冷気にうんざりしながら、古い土壁に触れないように足を進めていく。和室、納戸、襖が開いている部屋、閉じている部屋、そのどれもがしんと静まり返っている。両脇には目を向けないようにして私は歩いた。もしだれもいないはずの和室に、荷物しか置いていない納戸に、何かの気配を感じてしまったら。陽炎がゆらめくようにその影を見てしまったら。そんなことあり得ないとわかっていても、視線を左右に動かすことはできなかった。

心臓の音がうるさい。湯上がりの体から熱が奪われていく。廊下をこするスリッパの音、どくんどくんと鳴る心臓の音、それだけしかない世界に閉じ込められたような息苦しさを感じはじめたころ、母屋と別棟の境に到着した。うしろを振り返ることもなく廊下の電気を消す。あっという間に暗闇に包まれた。今にも首筋にふうっと息を吹きかけられそうな気がして、私は慌てて別棟へ通じる扉を開けた。

え——。

扉に手をかけたまま、私はその場に立ちすくんだ。

別棟には、昼間とは明らかに違う空気が満ちていた。何が違うのかわからないが、何かが違う。私は困惑しながら、恐る恐るといったふうに別棟へ足を踏み入れた。違和感の元を探るように暗闇のなかで視線をさまよわせながら、そっと階段の電気を点ける。何もない。やはりただの勘違いか。何を怖がっているのだ、情けない。ふうっと息を吐き、自室のある二階へ上っていく。だがやはり、何もないとわかっていても私の気分は晴れなかった。

ここは谷底にある一軒家。隣家までは遠い。何かいるとしたらそれは——。

母屋に比べれば新しいとはいえ、築二十年以上の建物はときおりギシッと軋みをあげる。しんとした空気を震わせるように鳴る階段の音は、明るい蛍光灯のなかにいても不気味だった。またひとつ、階段が鳴った。それを合図に背後の暗闇から何かがひたひたと迫ってくるイメージが浮かび、まだぬくもりが残っているはずのうなじが粟立った。母屋と別棟を隔てる扉がギギッと開く。漆黒の闇が広がるそこに、何かがいる。一歩、また一歩、それは私のほうへやって来る。そんな妄想に取り憑かれそうになり、慌てて意識を現実に引き戻す。もっと早い時間に、せめて両親が起きている間に自室に引き上げればよかった。後悔しても一度湧いた恐怖心がなくなるはずもなく、途中から足音を気にすることも忘れ階段を駆け上がり、自室に飛び込んだ。

部屋の明かりを点けてやっと詰めていた息を吐いた。あの感覚は何だったのだろうか。母屋のそれとは毛色の違う、押し返されるような圧。来るな。そう言われているようだった。

疲れているのだろう。車を運転し、長時間実家で過ごし、慣れないことをしたからきっと緊張が続いていたのだ。それだけのことだ。ここはかつて私の城だった自室だ。部屋の下を走る国道には車の往来がある。ここは日常だ。ここにいれば安心して朝を迎えられる。そう自分に言い聞かせ、電気を消し、私はベッドに潜り込んだ。やがてうとうと微睡みはじめた私は、綿が詰まった布団の重さを全身に感じながら、すぐに眠りのなかへ落ちていった。

それからどれぐらい経ったのだろうか、私はハッとして目が覚めた。眠りの底からゆっくり浮上するような目覚め方でなく、大きな衝撃で飛び起きたときのような、一気に覚醒する目覚めだった。めったにない出来事に、言いようのない不安が湧き上がってくる。自分に何が起きたのかわからずに、ベッドのなかで固まる。目だけを動かして天井とその周辺を眺めても、特別何かがあるわけではなかった。足と手の指先を動かしてみる。普通に動いた。金縛りにではない。ではこの気配はいったい何なのだ。寝る直前の穏やかな空気は消え去り、私の周りには、得体の知れない緊張感が漂っていた。

……怖い。

布団の重みがずっしりと胸にのしかかってくる。呼吸がしづらい。顔だけをゆっくりと動かしヘッドボードの時計を確認すると、申し合わせたように時刻は午前二時を示していた。いやな時間に目が覚めてしまった。それにあの目覚め方。何かがいつもと違う。部屋全体を包む空気が刺々しく感じる。あたかも侵入者を睨みつけるかのように、布団から出ている首筋や顔をぞわぞわした感覚がなでていく。これは困った。私は悪夢を見たときに普段からそうするように、膝を抱えて可能な限り体を小さくするため寝返りを打とうとした。そのとき、

私の頭上、南向きの窓の向こう側に、何かがいた。

遮光のカーテンをぴったりと閉めているはずなのに、見えるはずのない窓の向こうにいる何かの存在を、私は見てしまった。

どくんと大きく心臓が跳ねた。

それはヤモリのように窓にべたりと張り付いていた。ぎょろりとした目だけを動かして、私のことを見下ろしている。暗闇に浮かぶ二つの目が、瞬きもせず私に向けられている。真っ黒いそれは、何も言わず私を見ていた。だが私にはわかった。窓の向こうでそれは囁いていた。ここはお前の場所ではない、と。

金縛りにあったように体が動かなかった。全身に鳥肌が立ち心臓が激しく脈打つ。指先が冷たい。額にはいやな汗をかいていた。体中の毛穴が開いたように肌が激しく呼吸している。そんな私を、それはじいっと見つめていた。何をするでもなく、自分の場所に無断で入り込んできた人間を観察していた。

見られている。私はそれと目を合わさないように、決して顔は上げなかった。ぎゅっと目を閉じ、早くいなくなってくれと願った。頭上から突き刺さるほどの視線を感じながらも、起きていることを気づかれないようにじっとしていた。

いつの間にか、車の音も、時計の針の音も聞こえなくなっていた。無音の部屋で私は息を潜めていた。少しでも音を出してしまえば、すぐにでもそれが部屋に入ってくる気がして、私は震える体を懸命に抑えていた。今にも耳元で「帰れ」と囁く声が聞こえてきそうで、とにかく早くいなくなってくれと、それだけを繰り返していた。

コツっ。頭上で音がした。

ガラスを指で叩くときの、硬質な音。コツっ。コツっ。それが窓を叩いている。私を起こそうとしているのだろうか。それとも、起きていることに気づいている……?

お願いだから入ってこないでくれ。私は懸命に願っていた。

コツっ……コツっ……。

規則的に続く音はやがて止み、私はほっとして体の力を少しだけ抜いた。窓の向こう側には相変わらずそれがいる気配が濃く漂っているが、私は、このままそれが飽きてどこかに行ってくれるのではないかという淡い期待を抱いていた。

だが次の瞬間、

ゴンっ。

ひときわ大きな音が響いた。それはまるでこぶしを窓に叩きつけたような音で、静かすぎて敏感になっていた私の耳をこれでもかと震わせた。

つま先から頭まで、恐怖が全身を駆けめぐった。

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい勝手に入ってごめんなさい今夜だけここで寝かせてください。明日になったら帰りますもう二度とこの部屋には入りません。ごめんなさいごめんなさいあなたの城に入り込んでごめんなさい。

私の意識がもったのはそこまでだった。次に気がついたときには、西側の窓に引かれたうすいカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。

私は疲れ果てていた。昔から枕が変わるとうまく眠れないタイプなのだ。やはり実家に泊まるのはこれで最後にしよう。そんなことを考えながら、西側のカーテンを開けた。晴天の空は青々と透きとおり、国道のアスファルトを照らしている。いつもの日常が始まっていた。

結局あれは何だったのだろう。久しぶりに実家に泊まり、慣れない環境と寝具に体が反応して、いやな夢を見てしまった。それだけのことなのだが、窓に張り付いていたそれは、夢にしてはやけにリアルな存在感だった。夢から覚めてもはっきりと思い出せる、あの質量と、闇に浮かぶ白い二つの目、窓を叩く音。

そこまで考えて、私はふるふると首を振った。あれは夢だ。暗すぎる家に抱いた恐怖心が見せた悪夢。ここは私の部屋だ。かつて私の城だった安息地。明るくなれば怖いことなんて何もない。さあ、朝日を浴びて頭をスッキリさせて、朝ごはんを食べよう。私は勢いよく南側のカーテンを開けた。

「ひっ……」

喉の奥から掠れた音が出た。私は両目を見開いたまま固まっていた。窓の一部分から目が離せない。

窓には二つの手形がついていた。向こう側からべったりと両手をついた跡が。それじゃあ、あれは、あの夢は……。

帰れ。耳元で囁かれた気がした。

私は部屋を飛び出した。それ以来、実家に帰っても別棟には足を踏み入れていない。

あそこには、私の知らない何かがいる。

あそこは、部外者を拒む、人ではない何者かの城。

@uzu_uzu
エッセイ書いてます。いかにくだらなく、いかにアホな内容を提供できるかをまじめに考えています。 ごくたまに創作もするよ。