乃木坂マジックは効かなかった

·
公開:2024/11/16

首を寝違えました。寝ていないのに。

そうです。寝ていないのに、寝違えたんです。どういうこと? と思ったことでしょう。はい、私も思いました。どういうこと?

その日、いつものように五時半に起床した私は、いつものように猫にごはんをあげ、いつものように流れるような動きでお弁当作りに着手しました。まるいコンテナに、隙間どころか空気の通り道すら塞いでやろうという気迫に満ちた、みっちみちにおかずを詰めていく私のお弁当スタイル。ランチタイムはさながら発掘作業。考古学なんて専攻していないのに考古学者の気分が味わえるよ! 日本にいながら気分はエジプト! とまあ、そんな感じでおかずの遺跡を形成していくわけですが、どうやらその時に夢中になりすぎたらしいのですね。気づいたら首が動かなくなっていました。

中年にもなると、毎日どこかしら痛いのはね、それはもう納得のうえでこの体と付き合っているわけですけどもね、あなた、どうして寝てもいないのに首をいわすかね。ちょっと下を向いていただけよ? そりゃあね、夢中になりすぎて首や肩に必要以上に力が入っていたかもしれないわよ。でもさ、だけどもだけど、よ。そんなの関係ねえって小島よしお氏も言っているじゃない。ちょっとあなた、おかしいんじゃない?

おかしいんですよ。このバグり具合。自分の体ながら恐ろしい。だって寝ていないのに。寝ていないのに寝違えた。日本語すらおかしい。こわい。どうなっているの私の体……。

首が動かないと気づいた瞬間、私の頭に浮かんだのは「ああ、またやっちゃったよ」なんて呑気なものではなく「ヤバい……! これは本気でヤバい……! どうしよう、どうしたらいいんだ、とりあえず冷やそう、話はそれからだ」という緊迫感に満ちた焦りでした。なぜならこの日、数間後に私にとっての一大イベントが控えていたから。

乃木坂さんに会う。其れ即ちファンミーティング。

運悪く、朝イチで定期検診の予約が入っていたのであります。乃木坂さんに会うのに……こんなに首が痛かったら満足に彼女と交流ができない……それは嫌だ……でも首が痛い……そもそもこんな状態で歯医者に行けるのか……いや行く……絶対に行く……乃木坂さんに会うんだ……がんばれ私……からのとりあえず冷やそう、となります。この一連の流れ、ご査収ください。

超がつくほどめんどくさがりやの私が、患部を冷やすなんてほぼ奇跡。わりとしっかりやけどをしても、めんどうだからとそのまま放置するタイプの女なのに、乃木坂さんと会うためなら、冷凍庫に突っ込まれたままの、いつ手に入れたのかもわからない保冷剤を取り出すこともできるってわけ。推しって偉大。

しかし相手も強者。冷やしても痛みは引かないし首は動かないままだし、その間にも刻一刻とファンミーティングの時間は迫るし、もし「このときの作者の気持ちを答えなさい」と問われたら「絶望」と即答するぐらい、私の目に映る景色は暗かった(実際暗かった薄曇りの朝六時半)。

一時間以上冷やしても患部はズキズキしたままで、こりゃあかんとふらふら寝室に向かった私。なぜ横になろうとしたのか、あのときの私に問いかけたい。秒で「絶望したから」と返ってきますけども。痛みと絶望でお先真っ暗になった頭は、どう考えてもよろしくないぞ、と言わずにはいられない行動を選ぶものなのです。よっこいしょとベッドに横たわろうとしたところで、ハッと気づいたもののときすでに遅し。横になるには首を動かさなくてはならない。だがいま首は動かない。つまり……痛い! 首が……痛い……! 

変な姿勢のままベッド上で固まる女。いそいそとうしろを追いかけてきた猫も固まっていた。起き上がることも寝転がることもできない。どうしたらいいんだ。首が痛い。ものすごく痛い。起きても痛い寝ても痛い。この世の地獄は寝室にあった。せめて予約時間ぎりぎりまでは安静にしていたかったのに、安静どころかさらに患部を痛めたんじゃないのかおい……。

ほとんど虫の息でベッドに体を横たえたものの、当然のように痛みが引くはずもなく、できることといえば、ぐぎぎ……うぐ……ぐうっ……うっ……ぐぬう……と討ち死にを果たす直前の老武士さながらのうめき声をあげるだけ。だめだ。痛いわ。いつもの十倍の時間をかけて起き上がり、この数時間で二十歳ぐらい老け込んだよぼよぼの体を引きずり、私は歯医者へ向かったのでした。乃木坂さんに会いたい一心で。推しって偉大。

外はどんより曇り空。しかも寒い。痛めた首に厳しい世界。そして私はどすっぴん。日焼け止めすら塗らず、粗しかない素肌はマスクで隠し、髪は起きたままのボサボサヘアーを帽子に押し込んだだけ、かろうじて顔は洗ったものの立派な小汚い中年の姿で、きらびやかな歯科医院の自動ドアを潜りました。ま、まぶしい……。消されてしまいそうだぜ……。本当はばっちりメイクして、髪もきちんとブローして、高級アジアンリゾートの香りがするクリームを全身に塗りつけて、肩肘張らないけどオシャレに見える服を着て、いかにも平日休みを楽しむお姉さんを演じてこの場所にいるはずだったのに……なぜ……おばさん……なぜ……首……なぜ……せめて私が森高だったら……。

猫背でうつむきがちに椅子に座り、待つこと五分。ついにやってきたご対面の時間。乃木坂さんはやっぱり美しかった。う、ま、まぶし、ぐはっ……心の中で吐血しました。あまりにも神々しくて。そして自分との落差にあらためて落ち込みました。だって乃木坂さんはこんなにもかわいくて輝いているのに、私の周りはどんより不幸な空気に満ちているんだもの。なんでこんな汚い姿で乃木坂さんの前に現れようと思ったんだおまえ! 恥を知れ恥を! 乃木坂さんのくりんくりんのきれいなお目目が汚れるでしょうがっ! 

これで乃木坂さんが、ただ容姿がいいだけの人ならまだよかった。そんな人相手ならこっちだって見た目は気にしないし、なんなら「めんどくせえ化粧なんかするかってんだこんちくちょう!」ぐらい思った。でもね、乃木坂さんはね、性格もパーフェクトヒューマンでした。

開口一番「あれからヘルニアはどうですか?」と訊いてくれた乃木坂さん。「このときの作者の気持ちを述べよ」と問われたら「興奮」と即答するほど私の気持ちは一気に急浮上を果たしました。なぜって、推しが私のことを覚えていてくれたんだから! 何百人と患者を相手にしているはずの乃木坂さんが、こんな小汚い格好でうすら笑いを浮かべる中年のことを覚えていてくれた……! なんという僥倖……! 「やっと人間らしい生活ができるようになりましたあ〜」なんてくねくねする(もちろん首から下だけ)私を見ても、「あははーそれはよかった」と笑顔をくれた乃木坂さん、「痛みが引いてよかったです」と言ってくれた乃木坂さん、「おつかれさまでした〜」と労ってくれた乃木坂さん、あなたの笑顔で私の首の痛みはあれよあれよと言う間に快方に向かいました。まさに僥倖……!

なわけないよね〜。

ヘルニアは治ったけど今日は首を痛めました。なんて、中年にしか理解してもらえない不調デパートの品揃えををアピールしつつ、「ええ〜やだ大変〜」なんてきゃぴっとした反応をくれる乃木坂さんに、「変なところで唸ってたらごめんなさいね」なんて言ってニチャアっと笑う私。だんだん気持ち悪くなっている自覚はある。でもしょうがない。推しとファンの関係性ってそういうものですから。

今回の三十分のファンミーティング、心は潤ったけど、結局体はよぼよぼのままだった。そりゃそうだ。寝違えてるんだから。寝ていないのに。もうずっと痛いから、どうやって痛みを逃すかしか頭になくて、乃木坂さんのオシャレな爪の話もできなかった。爪かわいいですね! から始まるガールズトークとかさあ、したかったんだよ私は。めくるめくガールズトーク。乃木坂さんの個人情報をちょこっと、安全な部分だけ、引き出したいなとか思ってたんだよ。好みとかさあ、いろいろあるじゃない。後学のためにさあ、いろいろと、ね! それなのに、腰が、首が、歯茎が、痛いしか言えなかったよ。

ああ、乃木坂マジックで元気百倍かと思ったのに、中年の体はわがままですなあ。

@uzu_uzu
エッセイ書いてます。いかにくだらなく、いかにアホな内容を提供できるかをまじめに考えています。 ごくたまに創作もするよ。