集団に属してなにかを習得するようなシチュエーションを考えたとき例外なくその組織はどちらかのベクトルに歪んでいると思っていて、それが法人かつ多くの人の心理や健康にとって受け入れがたいものである場合ブラック企業と呼ばれたりする、要は多様なバリエーションのうちの一部、かつスカラーが大きいものに名前が付いていると理解している。その中に馴染んだり居残ったりする場合にはその歪みを把握するか順応するか、少なくとも歪みに合わせて作法を変更する必要がある。その形状の差異を意思疎通することが難しいので適応障害というステータスへつながっていく側面もありそうだ(もちろん主観でしかない)。そもそもその意思疎通のために用いる武器も相互にズレを内面化している。統一された尺度がないときにそれぞれとニュートラルの距離を評価することは非常に難しい。ニュートラルからズレた系では、誰かには常にバフもしくはデバフがかかっていることが想定され、なにかを遂行すること、習得することにはその適性や立場、心理的傾向などが影響している。能力・熱意など一軸に縋った評価が通用するような単純な系はもはや社会と呼べるコミュニティには存在しないといってよいだろう。この系の中の構成員同士もニュートラルな基準でもって評価することは同様に困難であり(ただし、特定の目的を達成しているか否かというチェックポイントの積み重ねの提供-被提供という関係に限れば話を単純化できそうではある)、自分より少し"出来ない""馴染めない"人物についてどのように評価しているのかは、その人がその系の中でどのような偏見を内面化しているかをグロテスクに映し出している気がする。さらに弱い者を叩いている弱い者たちが叩くに値する信念の軸のようなものを内面化していて、それに照らし合わせて弱-さらに弱 関係が「もはや明白である」場合に、それまでの留保を捨て去ってきわめて攻撃的になる、そういう場面が世界では繰り返しハイライトされている。恐れるべきは、前述のような信念の軸を大小多寡あれど誰もが内部に抱えていて、系が変わってしまえば自分が「当然そうあるべきである」という信念のもとさらに弱い者を叩くことになりうる(しかもその構造に気付くことのないまま)。自分たちにできるのは脳が動いているうちに俯瞰すること、そして標題のようなしようのないスローガンがいつか沼の縁にいる自分の手を握ってくれることを祈ることぐらいしかないのかもしれない。
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