2019年頃にフライングタイガーで買った五年日記である。
こんな具合で五分割された一ページの中に、各年、書いていく。
この画像からも分かるように、ほとんど書いていない。
2019年は4〜7月の間を八割ほど埋め、2020年と2021年と2022年は一日ずつ、2023年に至ってはゼロという有様。
合計一年分も書ききれてないのに、ざっくり一年に一回は書いている。既に年は定義済みで、私の日記帳だと一列目は2019、二列目は2020…という感じなので、例えば二列目に2020年以外の年を記入するのは違和感というか、収まりが悪い。
ということで、ほぼ歯抜けのまま五年日記が終わってしまったことになる。
2023年は一回も書いていないので一応空き列はあり、書けるには書けるのだが、2019年執筆開始の五年日記のラストが、六年目にあたる2024年でいいのか?五年日記に六年目があるのは、ぼくなつで言う8月32日にあたるのではないか?と、やはり収まりの悪さが気になって仕方がない。
ということで、2024年の日記をこれに書くことはないだろう。
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2019年頃は人間関係でいろいろあった時期ということもあり、文章から苦悩が滲んでいる。「ああ、こんな風に苦しんでいた時期もあったなあ」などとセピアがかった風景には、未だなっていない。
代わりに、胸のあたりがかすかに締め付けられたり、気持ちがいっぱいになってちょっと目頭が熱くなる。
しかし、辛さを追体験しているわけではなければ、当時の辛さを思い出しているわけでもなく、かつての私に寄り添い心を痛めているわけでもないので、「私は、一体どこの誰に何を思ってこんな気持ちになっているんだろう」と不思議になる。
辛さに押し潰されそうになっている人間の、まさに渦中にいる時の苦しさ。人間関係が決定的に切れた瞬間の、心身ボロボロで無気力なのに次のための余白が自分の中に生まれてしまった感覚。沁みるくらいあたたかく感じる、人の優しさ。
そういう感情が、インクに張り付いている。その日にあったことをただ書いているだけの日も多いのに、それでも伝わってくるのだから不思議だ。
つらい時期の日記は、良いダシが出ている。日記は気持ちの整理に効果的で、実際、書いたおかげで内省出来たのは間違いないのだが、「後々読み返すために日記を書いた方が良いのでは?」と思うくらい、旨味があり、良いダシが出ている。
昔の日記を読むといろんな気持ちが巻き起こるのは、当時の自分が綴る生の言葉で、特定の一日を思い出せることのかけがえなさに、じんわりとくるのかもしれない。