「国家」を通して感じる己の悪趣味について

静かな海
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 ボブヘタの何が好きか。

 「強国」「帝国」「侵略者」、恐るべき存在はかわいらしく。老いた存在は幼く。本質は途方もなく巨大だがしかし限りなく”個人”でもある。

 人間の営みは描かれるが人間は語られない。あくまで国家レベルの、人類によって構築されながら人類とは性質を異にするものたちの、巨大で美しい微笑み。海を抱いても陸を手にしても、溢れ落ちる黄金に満ち足りることは無い。ぎらつく理性と本能。より強く、より広く。

 そしてその手段、戦争とは、人間を相手にするものでは無い。ボブヘタが扱う古今東西あらゆる戦争の描写はどこまでも正しい。彼ら、国と国のやりとりなのだ。

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 戦争は人間対人間の関係ではなくて、国家対国家の関係なのであって、この関係においてここの人間は、人間としてではなく市民(国民)としてでさえもなく、ただ兵士として偶然に敵になる。つまり祖国の構成員としてではなく、その防衛者として敵になるにすぎない。各国家は他の国家を敵とすることができるだけであって、人間を敵とすることはできない。質を異にする事物の間にはいかなる真実の関係も打ち立てることができないからである。 ――ルソー「社会契約論」

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 国家を構成するもの:民族、文化、歴史、政府、体制、そして軍。近代国家において国家とは暴力の独占であり、戦争とは暴力を独占するもの、軍隊を指揮するものとしての国家が行うものである。

 戦と分捕り物に微笑む国家は私にとって、「災いなるかな、流血の都市よ。彼女は欺瞞と強奪とに満ち、……討ち殺された多くの者、大量の死骸。死体は果てしなく続く。彼らはその死体の上で幾度もつまずく」のであり、私は……私は物語られるものとしてのその惨劇を愛している……。もちろん帝国主義も侵略戦争も恥ずべきものだ。それは揺らがない。が然し、という話だ。

 中世フランスの詩人、ベルトラン・ド・ボルンは「春を好み鳥の歌を愛でるように戦争もまた見るものの心を踊らせるもの」と言ったそうであるし、ナポレオンもまた「戦闘とは劇的行為である」と言っている。刀剣が鋭く身をひからせる様が美しいように、軍服を纏い力を誇る姿にはとびきりの引力がある。そうでありながら彼らはどこまでも「萌え」的文脈から可憐に描かれる。人間の欲望を通して再構築されたものは、多少の悪趣味を寧ろ価値あるインクルージョンに翻訳する程度には、魅力的だ。困ったことに。

許光俊「オペラ入門」

画像:許光俊「オペラ入門」

 いまは勢いで書きなぐっているが、ヘタリアのことを考えているときは常にこれが念頭にある。強い存在が振るう暴力が好きなのだ。本当に悪趣味だ。本当に……アーーーー……。新シリーズで日丸屋秀和がどれだけ好き放題するつもりなのか楽しみにしている。そして初期の感性を忘れないで欲しい。