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ワコ
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・iPadを使ったレジのお店で、会計時にいわゆるレジのドロワの音がした

しばらく考えていたけどあの音の大本はもはや概念で、スマートフォンの着信音に黒電話のベルがあるようなものなのだろう

あの音に設定したお店の人は何を考えてそれにしたんだろう レジアプリケーションのデフォルトなんだろうか だとしたらそのアプリをリリースした人はどうしてあれにしたんだろう 全く必要がないし、需要もないと思うんだけど

・レジについて「?」でいっぱいになって思い出したのは、もう何年も前だけど、植え込みの植栽の写真で装飾されている様子

工事現場の囲いに緑の木々の写真があるのもそうだけど、明らかに植え込みがありそうな低さの長方形が道を区切るように置かれていて、三角の背を長く持って貼り合わされた面には特定のできない植物の葉がプリントされていた

本来の趣旨から大いに外れているが、本物にすると手入れやゴミの廃棄等の問題があるからそうしたんだろうけど、「緑が在る」ことの人間の動物的な受け取り方への働きかけの機能は全くしておらず、根本が失われているが否定されず遂行されてしまった悲しさというか、気持ち悪さだけが残っていた

・外にゴミを捨てる(置く)行為、あれは悲しい

置いたらどうなるのか、なぜ良くないとされているのかということに思いを馳せることができないというのは、とても悲しい存在だと思う

これについては考えると長くなるのでやめておく

・地下歩道に吹き込んだままの銀杏の葉

本来の落葉樹の葉は、土に落ちて根本で養分となり、自然に分解されるものだけれども、アスファルトが先行し、緑としての役割で連れて来られた木であったり、元々の住処が塗り固められてしまったり、そういう場所では落葉が問題とされて、並木が行政単位で軒並み伐採されてしまったりもする

木が樹になるには途方もないのに、ある日あっさりと木陰もなくなり、鳥が居なくなる

・今朝はムクドリが電線に止まっていた モーツァルトのピアノ協奏曲17番

・ずっと前に、基本的にツイッターは「思い」で、「考え」と温度差があるから軋轢が起きるんだなあというようなことを書いたことがある

ツイッターに限らず

言葉にならないものを言葉にして形を近付けたとしても、言葉にした側の中にも齟齬があるし、ただそれすらも言葉にしないと伝わりようがなく、言葉は伝達手段であることを踏まえて、その元にあるものとその先にあるものをすり合わせていく作業が必要だけれども、言葉として目にした時に、目にした側が持ち得る感覚で理解が始まってしまい、もはや曖昧だったものをどうしたかったか、双方わからなくなってしまいがち

人から発せられるものである以上、主観しか存在しない 客観的に見て、という時にも主観しかない

それがまず大前提で、お互いの度合いを調整する作業ができるか相手かどうかはとても大事

往々にして、それができる人はだいたい諦めているので、もしかして話ができるのか?と感じられた時に、エネルギーを賭して相手をしてもらえそうだったとして、自分から明け渡せるものが寂しくないようにできていたらいいな、と思う

・1/29の日めくりカレンダー、とてもよかった

@wacco
メモと絵