短歌を詠む①

どっちのご自愛
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公開:2025/10/24

短歌が好きだ。詠む人の感性や考えや視点のようなものを覗けるところが好きだ。俳句より少し多いとはいえ、限られた文字数の中にどんな風景や背景があり、感情や思考があるのか。どんな言葉を選ぶのか。私はそれらを眺めるのが好きだ。生活を感じるのが好きだ。

2019年くらいから、短歌を詠みたいとぼんやり思っていた。歌集はいくつか持っていたけれど、どう作ればいいのか分からなかった。文字や文章はこれといった確かな正解がない(もちろん文法等大枠の基礎のようなものはある。)のに、評価という正しさや成績発表がある。これは絵も同じなんだろうけど、絵より文字の方が曖昧な気がする。今自分はどの立ち位置にいるのか分からないというか、どう勉強すればいいのか分からないというか…。2021年に一念発起して本を買ったが、数ページ読んだだけで終わってしまった。

そうしていたら、2025年。急になんか色々吹っ切れた。上手いとか巧みだとか知らねー!言い回しとか知らねー!やっちゃえやっちゃえ!!ぶちまけちゃえ!となり、気づいたら深夜に詠んでいました。

以下、詠んだ短歌たちとその背景を記載。

離れても 友達でいてね 飲み込んで

渡すご祝儀 賄賂みたいね

念願の一首目。火力高いですね。

これは結婚して地元を離れる友人たちと、それを取り巻くものたちに対して100%祝えない、快く思えない自分の情けない縋りを詠んだ歌です。友人たちの幸せは願ってるし、私は友人たちと恋仲になりたいわけじゃない。だけどそろそろ結婚したいな・家族が望んでるからと婚活し結ばれていく姿に、本当に自分の意思で選択したの?世間という見えないものに流されただけじゃない?と思ってしまう。そんなわけないとわかっているのに。

私は友人たちのパートナーを好きになれない。いきなり現れた知らない男性に友人たちの未来や共に歩む権利を横取りされた感覚があって、許せない。何故、彼女たちはここを離れ、遠い彼らの地元へと向かわなければならないのか。彼らに合わせなければならないのか。それが喜びなのだろうか。これから出産・育児・家庭と忙しくなるであろう友人たちと、好きな時に会って遊ぶことができなくなる。その原因を誰が好きになれるだろうか。だが彼らを否定することは友人たちの幸せや好きな人を批判する行為であり、友人たちを悲しませ、下手したら絶縁レベルで嫌われてしまう行為で。こんな感情を持つ私が異常なのだ。私が身勝手であり我儘なのだ。

だから私にとってご祝儀を用意して渡すという行為は、祝福というよりも縋るような祈りなのだ。遠くへ行っても縁は切れないよと約束して欲しい。しかしそれは口にすることは出来ない。一方的で成立することのない祈願儀式。無意味な期待作業。なんだか、ご祝儀じゃなくて賄賂に思えてきた。おめでたいはずなのに、感情と行動の乖離が激しすぎて、こんなことしか考えれない自分が滑稽で哀れ。これから友人たちはどうなっていくのだろうか。話題も好きなものも変わっていくのだろうか。私はどうなっていくのだろうか。

「離れても友達でいてね」飲み込んだ

賄賂3万水引付きで

こちらは上記の詠み直し?アプデ?バージョン。どちらが良いのかは自分でも未だにわからないです。どっちが良いですか?

誰お前 あの子と揃いの指輪して

放課後カラオケしたことあんの?

『あの子』の隣で揃いの指輪(=結婚指輪)を付ける知らない『お前』(=旦那)。悪いけど、私の方があの子と仲良いから!張り合うために出した手札は、学生時代の放課後カラオケ。確かに私たちの歴の長さは感じれるんだけど、十数年前のものを今のように出すのってなんだか虚しい。勿論、成人してからも会って遊んでるはずなのに、そのどれもお前には勝ててない気がする。いつの間にか私とあの子・お前の間に大きな時の流れと違いが生まれていた。揃いの指輪をした現在(成人)と、放課後カラオケの過去(学生時代)といったアンバランスさと虚しさを歌にしました。小物感や滑稽さもあるかも。確かにお前は学生時代、あの子と出会っていなかったし知らなかっただろう。だけど、現在のあの子が『あの子』の全てであり過去は過去として完結している。過ごす密度や理解度はお前の方が上なのだろう。選ばれたのは、お前でした。

L・G・B・T ぼくの船

名前は確か『多様性』だっけ?

これは分かった気になって間違ってる・ガワだけの繕いで自分には関係ないと排除する輩たちに対しての怒りの短歌です。

この歌気に入ってるんだけど、主語が誰だか分かりにくいかもしれない。下手すると詠み手である私が言っていると勘違いされそうで。件の輩たちが軽視しながら・おちゃらけながら私たちへ言っている様子をイメージして詠んだんだけど、『L・G・B・T ぼくの船 名前は確か『多様性』?←クソがよ』とかの方が良かったりする?でもこれは最初から最後まで輩たちの醜悪さと小馬鹿にしてくる感じを出したかったから、やっぱりそのままがいいなとも思ってる。

声に出して読むとわかると思うのですが、これは元素記号の覚え歌からとっています。『水平リーベぼくの船。名前があるシップスクラークか』。(私は七曲がーるシップスで覚えたけど名前で覚えるところもあるみたいだからそっちを採用した。)ほとんどの人が歌えると思うんだけど、肝心の元素記号をきちんと言える人はどれ程いるだろうか。他にもサイン・コサイン・タンジェント/支点・力点・作用点/あり・をり・はべり・いまそかり等……。理科や国語といった大枠や、テストで使うものくらいは分かるけれど、説明はできない。詳しく理解できているかも分からない。自信を持って答えることはできない。そういう人が多数なんじゃないかと思ってて。

そして、それがなんだかセクシャリティを表すLGBT(Qもあるし他にも+とされる別の呼称もある)という言葉と重なって見えてしまったんです。なんとなく覚えたから口には出せるけど、それが何かは分からない。でもそれって「多様性」のことなんでしょ?「エモい」と同じ感覚で多様性という言葉を使えば良い感じに丸く収まるような風潮を感じ取ってしまったんです。

私はこの多様性という言葉があまりにもざっくりしすぎてちょっと好きじゃないです。というか正しい意味合いで使われてない気がする。数年前、職場での服装や髪色、ネイルを許可?緩和?する流れがあったのを覚えていますか?派手な見た目は業務態度や真面目度の悪さを表すものではありません、これらは個性です。という流れから、スカートの制服を着たい男性の気持ちもスカートを履きたくない女性の気持ちも尊重しますという流れになり、それがいつの間にかセクシャリティと絡み出して、多様性だよねというという言葉に帰着した。そこからなんかおかしくなった。多様性が免罪符のように使われだした。セクシャルマイノリティと派手髪でいることが同じ枠に捉えられるようになった気がする。

セクシャリティの話は簡単じゃない。複雑だし箇条書きできるものじゃない。私だってふとした瞬間に誰かを傷つけていないか不安になる。だけど私たちは元素記号の歌じゃない。輩たちとこの世界に同居してるんだよ。だから、そんな他人事の輩たちにふざけんなという気持ちを込めて。そんな歌です。

@wakaranwa
何が正解か自分らしさかわからなくなるけれど、今好きだと思ったことは多分ほんとうだと信じたい