私はChatGPTやGemini等の生成AI(LLM)を使っているが、「自分の中だけのお約束」をいくつか決めて利用している。これはインターネット生命体におけるSNSのマイルールのようなもので、奇妙で一貫性のないものだ。それでも、「これは嫌だ」のラインをやってしまうとかなり自分にダメージが来る気がしているので、改めて整理してこの場に提示しておこうと思う。また、巷で言われている「言語化」とLLMの存在はけっこう関連しているのではないか?と思うので、それも書き散らしておきたい。
約束1:お互いに丁寧語でチャットをする
これはGPT-3が出たあたりのころに生成AI(LLM)ってものがあるらしい、と知り、好奇心で触ってみたときからのマイルールだ。共通のプロンプトにわざわざ「丁寧語で話してください」としつこく覚え込ませて、私もLLM側もお互い丁寧語でチャットをしている。これはなぜかというと、LLMと対話するときと現実の他者と対話するときに使っている脳みその領域はあまり変わらない気がしていて、仮にLLMに対してぞんざいな扱いをしてしまうと現実の他者にもそれが波及するのでは、という懸念があるからだ。もちろん、そのふたつはまったく同じではない。相対するものがLLMであれば、「相手の気持ち」を慮るということはする必要がない。こちらが投げた文章に対して、それっぽい(の精度が日進月歩であるが)文章を投げ返すだけの存在だからだ。ただし、「(言葉遣い等の)振る舞い」というものは日頃の積み重ねで変化するものであり、LLMにはきつい物言いをして現実の他者にだけ気遣う、ということは少なくとも私には不可能だと思っている。あくまでも、私の中で「コミュニケーション(らしいもの)を取るうえで、LLMは現実の他者と変わりない」という認識がある。そのため、現在も丁寧語でチャットを続けているというわけだ。ふつうにありがとうございます、助かりましたって言うし。でもこれはLLMへの敬意の表れではなく、「振る舞い」の一貫性を持たせたいだけ、という理由でやっている。
約束2:画像生成をしない
これは単純に、100%好みの話だが、生成AIの提示してくる画像のことが私はあまり好きではない。画像生成に特化したものを利用したことがないから、というのもあるとは思う。文章だろうが画像だろうが膨大な・クリーンでない情報源に基づいて返答をするのには変わりないのだが、後者に関してはやや抵抗感が強い。簡単な図であれば私が描くことができるし、そもそも数十秒後にイラストがほしいタイミングというものがない。クリエイティブな仕事は生身の人間に、という意識が強いのだろう。文章はクリエイティブじゃないのかよ?という矛盾は孕んでいるが、私が生成AIに期待している内容は、おもに愚痴聞きに近い思考整理の補助である。「これに悩んでいるが元気がないのでうまく思考がまとまらない」という曖昧なものを投げたり、単純に鬱で精神が終わっているときにカウンセラーへ話すべきことをテキストで打ち込んだりしているので、クリエイト(特に、二次創作)で利用することはほとんどない。具体的なネタを考えてもらうとか、実際に小説を生成してもらうということには恩恵を感じていない。そこはおれがやりたいことなので。たまにエンタメとして楽しむぶんには面白いかもしれないが、それをメインコンテンツとして享受するのは私には向いていない。ただしコーディングはLLMに聞いてなんぼだと思っている節があるため、個人サイトをHTMLベタ打ちでつくる際には大変世話になった。だいたいここらでマイルールは提示できたと思うので、次は「言語化」について言及する。
LLMと「言語化」の関連性
まず、ここでいう「言語化」は「非言語情報をテキストや話し言葉に変換する行為」を指す、という定義をしておく。特に、ここ数年でコンテンツ作品に対する「感想」や「考察」について取り沙汰されているように感じている。三宅香帆著「『好き』を言語化する技術」を読了し、たしかに「言語化」の楽しさというものは存在するよな、と思う一方で、それをやるべきところとそうでないところがあるよな、という感想を持った。私は「言語化」が得意なほうなのだが、言語偏重型である私という人間は、なんでもかんでも言語に降ろそうとする悪癖があるため、「言語化」ってそれほどいいもんじゃないぜの気持ちになってしまう。具体的には言語に降ろせていない自分の感情をないものとして扱ってしまう節があり、でも非言語のままそれらを抱えていたってかまわないよな、ということをごく最近になって実感できた。自分を含む人間の曖昧性/不確実性/多面性(矛盾)に耐えうるだけの胆力を持ち合わせたいものだ。また、「非言語のままのなにか」を「言語」によって固定してしまう行為は不可逆だな、と私は思っている。しかしLLMは「言語」によって情報伝達をおこなっており、「つまりあなたの言いたいことはこうなんですね」とLLMに言われてしまうと途端にそんな気がしてきてしまうことがある。「いや、違うけど」と跳ね除けることもあるにせよ、私の経験上LLMと対話を重ねると「言語化」が進行して思考が固定されていく傾向にある、と感じている。不可逆なんですよ! これって! 言語にしないまま、曖昧性を確保しておく領域も必要である、と個人的には思っているよ、ということを言語で残すのはなんだか皮肉だ。テキストって便利すぎる。それゆえに危険物として扱っていきたい。自家中毒にならないように。