魔法使い・イメージソング・短歌

瑣事
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祝福を 花野にいるということは去るときすらも花を踏むこと(榊原紘『悪友』)

ミスラ:こんなにミスラの歌だと思えること、あるだろうか?言うことがなさすぎる。なにげなく(その意味を問えないほどの軽やかさで)決断して交わした約束が、チレッタの死が、フローレス兄弟が、あるいは魔法舎の生活が、フウィルリンが、傷つく覚悟をしてきた彼の前に投げ出されている。だれかを客観する歌である。花野にいる、花野を立ち去る時には花を踏むことになるだろうそのひとの心は、ここにはない。それがすべてだと思う。

火から火がうまれるときの静けさであなたにわたす小さなコップ(笹井宏之『えーんえんとくちから』)

ファウスト:心に炎を宿した人であることはマナエリアを焚き火とすることからも印象付けられているだろう。親友に火あぶりにされても火を恐れず、在りし日の友もいた焚き火の灯りを心に抱いている。歌にあらわれる情景はとても密やかで、ささやかなものだ。神聖と言っては語意が勝ちすぎる。そういうものを見てしまっているんだけど、そうとは言わないなかに、ファウストという人があらわれる気がしている。

歌ひとつ覚えるたびに星ひとつ熟れて灯れるわが空をもつ(『寺山修司青春歌集』)

リケ:イメージソングとはいえ直接歌い上げるのはいかがなものか、というひねた心持ちもあるんだけど。それらを一蹴して、この歌をリケだと感じる。「歌ひとつ」「星ひとつ」という言葉のもつやわらかさ、「熟れる」「わが空」という言葉のもつ物々しい硬度、どちらも手にしていてほしいから。

いたみとは光のやうで 重すぎて羽ばたけぬ海をずつと見てゐた(藪内亮輔『海蛇と珊瑚』)

フィガロ:現代短歌は心情を赤裸々に、あるいは詩情にコーティングしてうたったものがおおい。風景に寄せて風情とするには背丈の足りぬ、切々な思いがあって、はつり(斫り)っぽいなって思う。壊して、削って、整えたものがある。この歌をフィガロだなあと思うのは四句目の「海」に集約される。三句目の「重すぎて」まで引きずって、いかにも重たげな身体を、眼前の広大な海に仮託している。ここに、私はフィガロを見ている。

さびしさのとけてながれてさかづきの酒となるころふりいでし雪(若山牧水『路上』)

ブラッドリー:近代短歌が似合いすぎる(古い男の表徴を背負う男だと思っている?)「さびしさ」を口にする男と口にしない男がいるが、ブラッドリーは前者である。ただし、滅多なことで口にするものではないから、そうしたものは酒のなかに潜ませて、ひとりで静かに過ごす人でもある。

空洞を籠めてこの世に置いてゆく紅茶の缶のロイヤルブルー(佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』)

オーエン:空洞とは虚しく、寂しく、寒々しいイメージを伴うもの。忘失の彼方にあるからっぽの過去が垣間見えるたび、オーエンはさまざまな言葉をもって語られる。だけど、この歌は空洞は空洞のままに、自由な気高さがある。

▶︎ 番外

春なれば花ふみしだく蹄もてつね加害者でありたきものを(佐藤弓生『薄い街』)

北の魔法使い:むやみやたらと花を踏み荒らすものにはもてない蹄がある。見て見ぬふりをして誤魔化したり、主体と自覚をなくしたりしては持ちえないものを、彼らは持っている。

(2024/02/25)