すべてを明け渡すかのように他者を信じることの本当のおそろしさとは、その人が失われた時に、自分が信じて明け渡したもののすべての意味や価値が失われたかのように錯覚することなのではないかと思う。信頼とは、そういうものだろうか。もしそうだとしたら他人は信じない方がいい。(もしそうだとしたら、であり、おそらく「信じる」とはそういうことではないのでは、と考えてもいる)
シンガーさんを失ったミックは、日々の労働に身をへとへとにして、労働によって自分だけの時間を奪われている。家族のために、生きるために、生活に心を脅かされ、搾取されている。
彼女は内側の部屋から閉め出されている。音楽は以前のようには彼女のなかで響かない。そもそも、彼女は音楽家を志すのに必要十分な教育を受けることもままならず、オーケストラのための交響曲を五線譜に書き表すことも十分にはおこなえないでいた。
その部屋に、立ち入れないということ。シンガーさんは失われたが、きっと音楽は彼女のなかから失われてはいない。彼女の内側の部屋はそこにあり続けている(だろう)ということ。それはきっと、あの町を去るブラント、コープランド医師も同様にそうなのだろうと思う。
同様に、という言葉をこの物語に扱うことはあまり適当ではないと感じる。さまざまな人種、主義思想、社会問題、イデオロギーがある。そうしたものと不可分の個人がある。おしなべて平等に個人であるという主張は、この物語のなかで明確に衝突と断絶をもたらしてもいる。
どうしようもなく個人で孤独ではある。(それでも、といった逆説を意図しない)そのことは「内側の部屋」がそうであるように、ただそこに置かれている。
1940年に発表された作品であることをつよく意識したくだりが何か所もあって、あったけれど、同時に今もここにあるリアルな物事だと感じられもした。他者に触れて思い知る距離、肌感覚、摩擦、それらを取り巻く社会のありさまが。
『心は孤独な狩人』カーソン・マッカラーズ/村上春樹訳