ファースト・カウを見ました。
冒頭に結末を持ってくる作劇の技巧を思うより先に、何度もああもう見ていられないな、と思った。そんなことをしたらそうなるのは当然でしょうが………と考えてよぎる、そうだろうか、という疑念。
仲買商の、さながら故郷のロンドンを思わせるドーナツを初めて食べた時の感激ぶり。未開の地に拠点を置いて侮られている、隊長を見返してやりたいという思い。その一念で作られたクラフティ。それらは隊長の訪問とともに霞んでしまう。彼のなかで萎んでしまったかのように、持ってこさせたクラフティには目もくれない。頭の中は花の都なパリ、ロンドンの最新のトレンドでいっぱいなのか。
何よりも、punishmentという言葉。やたらと連発されて、頭に残った。他に印象深かったフレーズといえば、字幕では「お前」とか省略されてるところでも「クッキー」って、愛称の響きだっただけに。人を人とも思わぬ残忍ぶりで。「俺の牛(財産)」に触れたやつは「殺してやる!」と。そして“あの中国人”と名前すら呼ばれないで、……
(中国人と先住民を見間違える、中国四千年の秘密といったふうなステレオタイプの文句、女みたいな奴だという罵倒、俺たち男には目の前のものを手に入れていくしかない、といった台詞の数々、西部劇の時代という箱の中に置かれている)
これからも増えることが約束されている牛の乳を数ヶ月間盗んだことって、命で贖わなければならないことかな。雄牛や子牛を犠牲にしてるのに。そこにある過剰な罰の意味は、作中で語られている通りのもので……まったく、当然なんかではない
そうした事情は(を)傍らに、彼らの友情を見た。やっぱり盗みは良くないよなみたいな話でもないし何かを乗り越えもしていなかったし何なら「何も起きなかった」(「起きた」ことは全部フレームの外にあって、酒場の乱闘が外に押しやられたように)くらいのもので、逃げたと思ったのに壊れた家に立ち寄って、逃げたと思ったのにもう一度家のまわりを訪れて、相手の顔色をうかがって、何も置き去りにはしなかったことが映されていて。
人には「そういうもの」があったら、同じ場所で骨になることもあるんだろうな。