感性は磨くことを怠ると衰える。まるで肉体のように。
東京で生活をしているといち早く新しいモノ・コト・ヒトに触れることができる。そしてその機会も多い。
当たり前に東京にそれらが集まる構図となっているから。
最新のテクノロジーが試されるのも、画期的な体験ができるイベントのようなものも、来日する海外タレントも、まず東京から。そして全国に広まっていくというある種の方程式のようなものがあると思っている。
そんなところで、知的好奇心を満たすためにはとてつもなく恩恵のある場所だが、かと言って感性が発達する機会に恵まれているかと言われたらそこはイコールではないはず。
ここ最近心と身体の疲弊を感じていたので、ひとり軽井沢に半ば逃亡する気持ちで行ってきた。
前日に雪の降った軽井沢は、東京の景色とは全く異なっていた。大袈裟だが、新幹線を降り駅を出た瞬間、まるで別世界に飛び込んだような気持ちになった。
特に目的もなかったので、駅から少し離れた木々の生い茂った道を散歩した。
目に見える景色以上に、そこで聴こえる音に異様なほど心を動かされた。頭上に感じる小鳥の鳴き声、どこかで流れる水、歩みを進めるたびに潰される雪。
その瞬間、なぜだかわからないが、間違いなく今ここで自分は生きていると言う実感をした。思わず笑っていた。完全に変人。
普段、音の存在に気づくことなんてそうないから。
僕の中で、東京で発生する音はそれぞれが独立した音としてそれらを捉えることはほとんどなく、雑音として脳で処理されている。なんならその雑音すらヘッドホンから流れる音楽でかき消す。
生を実感した理由、考えてみた。
おそらく東京では、自分の存在を社会の一部として捉えてしまっており、独立した1人の人間だと認識する機会が限りなく少ない。
それを音を通して感じ取った気がした。
もう一つ感じたこと。東京はあまりにも無駄が多い。
渋谷や品川など、都市部では今もなお開発が進められており、原宿の交差点にもハラカドと名前をつけられたそれっぽい建物が建てられた。
原宿をよく訪れる自分にとってはそれは違和感でしかない。同じような建物なら銀座にもあるし、僕にとってそれが原宿になくてはならない建物だとは到底思えなかった。むしろ邪魔だと思うくらい。
ましてやテナントの一部に銭湯が入るらしい。誰が原宿に風呂に入りに来るんだよ。
それっぽい意味づけをしているが、変な意識の高いサウナ銭湯の流行を原宿というまた異なるカルチャーに溢れた場所に持ち込むなよとも思った。
そんな感じで、必要のない新しいものが東京ではつくられている。
おそらく、それらは大人たちの欲求を満たすただのエゴの具現化だ。
そして、多くの大人はその意味のない行為に気づいているだろうが、(無意識的に)気づいてないフリをしてそこに自分が生きた証でも残そうと思っているのだろう。
多分僕は頭でっかちでわがままだから、今の僕の仕事は僕がやらなくてもいいと思ってしまう。明日僕が辞めても困るのは直属の上司くらいで、でも別にうまく回るんだと思う。
上司に言ったら、そんなことない!とかみんなそんなもんだよ!とか到底納得はできない返答が来ることは目に見えているが。
やはりそこには僕の介在価値がないように思えてしまうし、社会の一部にしかすぎないと思ってしまうわけだ。独立した1人の人間として在りたいのに。
書いていて思った。僕がいるべき場所は今の場所ではなくて、1人の人間としての自分を認識できる場所なのではないだろうか。
「100万人よりhoodのstreetにめがけろ」
kandy townの10のルールのうちの、この文言が妙にしっくりくるのも納得だ。
僕がいることによって、幸せになる人がいるのであれば、その人のために命を燃やしたい。