わたしが今いる場所では雨が降っている。雨がさあさあと降る屋根の下、適当な音楽をBGMにこの記事を書いている。
今わたしは『しずかなインターネット』という場所にわたしの書いた文章を投稿しようとしている。公開されると過去形になるので「投稿した」とするべきだろうか?些細なことだ。
日記・日誌・ジャーナル・ダイアリー……つらつら思うに、わたしがこの場所に投じようとしている記事は雑記・雑文・漫筆と呼ぶほうがよさそうだ。
さてタイトルである。
わたしは三日坊主だ。生来この方、飽きやすく締まりがない。内省し反省し猛省する気はなく自戒する気も失せた。本当、どうしようもない人間である。
そんなわたしだが、日記をつけるという行為自体は何年も続いている。両親や祖父母、ある世代より上の人たちはアナログで現物のノートにせっせと書いているみたいだが、わたしは違う。ピコポンなデジタル人間である。
モニタに向かいキーボードを打ち、日々の徒然を書き残している。月が変わればその月の振り返りを書き次の月の予定や目標を書く(守れるかはともかく)。年も同じように書く。一時期など週も同じようにしていたがさすがに煩雑なのでやめた。
一応続いているのだが、ただ、ツールを転々としているのがよろしくない。あっちへ行きこっちへ行きとしているのだ。
わたしと似たタイプの日記書きは首肯してくれると思うのだが、どのようなツールでも最初はわたしもやる気充分、意欲満たんの状態で綴りだす(そう、この記事のように)。
だがある日を境に段々と文量が減ってくる。「誰々と会った」「何々をした」「ベリベリ疲れた」……日々の中では色々起きているのに、日記は単調になる。一言二言書いてハイおしまい、という感じ。
自分の中で日記が義務化されると鬱陶しくなるのだ。ままならない。
そうなると心機一転、別のツールを使いたくなってくる。新しさに溢れ、義務感が希薄化する未知の道具に触れたくなる。
ライク・ア・ローリング・ストーン。回るよ回る時代よ人よ、というわけだ。
読者を想定したSNSやブログならここらで使ってきたツールをべらべらと紹介するだろうが、しない。面倒くさいので。そしてこういうことを大っぴらに書いても許容されそうなこのサービスが、今のわたしには大変魅力的に響いている。
ここは、Twitterやnoteのような賑やかな広場ではありません。ここは、あなたのパーソナルな部屋のようなものです。部屋に文章を置き、通りかかった人が部屋に入って自由に読むことができる… そんなコンセプトで作られました。
しずかなインターネットの使い方 ( https://sizu.me/about )
しずかなインターネットではプラットフォーム上の利用者の空気感が、他の利用者の空気感や気分に影響を与えないことを優先し、完全に切り離すようにしています。
sizu.meに一覧ページがない理由 ( https://sizu.me/catnose/posts/i5t41a2u7t56 )
風に吹かれてコロコロ転がっていた本日午前、しずかなインターネットの存在を偶然知った。そして上記引用元を読んで「なんだかいいな」と思った次第だ。
SNSやそれらコミュニティを否定するつもりはないけれど、こういうサービスもあっていいんじゃないかと。インターネットに公開されながらローカルのような感覚でいられるというか。
人の目を気にしいなウツボのわたしにはこれくらいの緩さが丁度いいのかもしれない。
そう考えてからは早かった。『われさら』としての思考の投げ捨て場はここにしようかな、という算段を早速立てたのだ。気が向いたときにふらっと怠惰な文章を書き捨てるのだ。おお、素晴らしきかなインターネットよ。人類の英知と汚物の詰まったおもちゃ箱よ。
というわけで、わたしは今、ここにどうしようもない雑文を点として置き、新たなる義務感に囚われようとしているのである。