犬と生きる

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犬は家族か?

たびたびTwitter (現X)では犬が家族なんだからという主張が見られる。周りの知り合いからも同様の見解を耳にしたことがあるし、犬は正式な家族であると考えている人が少なくないと思われる。

このような言葉に触れ、私にとって犬は家族だろうかと自問するタイミングが何度かあった。結論としては、家族かどうかは関係なく、私の生活において重要な存在であり、その幸福を願う対象であるということだ。家族と表現するかどうかは些細な事柄である。

家族という語を重視する人のそれは、おそらく家族という言葉から私がイメージするものと異なるのであろうと想像する。私は独身者で人間の家族は親と兄弟のみである。そしてそれは何十年も前に形づくられ、物心がついてからこれまで不変のままここまできた。苦労して手に入れたわけでもなく、耐えながら維持してきたものでもない。これは幸いなことではあるが、「家族」というもの自体に特別な執着がない。もちろん、親や兄弟を特別な存在として捉えているが、それとは別の話である。故に犬を家族と表現することにこだわりを持つ人をみると、否定もしないが強く同意もできないと感じる。ただ、少なくとも彼ら彼女らと私は、犬を大事な存在と思っており、この社会で犬とともに幸せにいきたいと願っている点は同じであろう。

現代の日本社会は犬を人間と同等に扱うようにはできていない。そして今後も犬を人間と同等以上のものとしてみなすことはない。これは日本に限ったことではなく、おそらくほとんど全ての国で同じであろう。つまり、犬が家族であろうがなかろうが、当然ながら人間のみで生きる場合と比べて、犬と生きる場合は制約が発生する。例えば、飛行機では犬は貨物室に入れなければならず、それが嫌であれば犬を留守番させたり誰かに預けなければいけないし、災害時には避難所に犬を連れて入れない場合があるといった具合だ。犬の権利の向上や、犬との生活における制約を取り払いたいと考え、その実現に向けて社会に働きかけること自体は各自が好きにすればよいが、少なくても今の社会において犬と暮らすということはそういう制約が発生するということを理解した上で犬を飼い始めるべきである。そして、仮にその社会への働きかけが上手くいっても、人間と(それがどれだけ程度の低い人間であって)基本的なレベルで犬が同等に扱われることはないであろう。

私にとって共に暮らしている犬はかけがえのない存在である。正確にいうとここ最近でかけがえのない存在になった。最初は犬と一緒に暮らしているのが不思議な感じだったが、今となってはこれが普通の暮らしである。犬を飼い始めたことに生じた不便は多くある。仕事が忙しくても時間を作って散歩にいかないといけないし、気ままに長時間の外出は難しくなり、実家にも中々帰られなくなった。それでも良いと思っている。私はうちの犬に幸せな生活を送ってほしいので。