「氷菓」というアニメが好きです。
神山高校の「古典部」に所属する四人の部員が日常の中の「謎」を解き明かしていく青春ミステリーです。10年前にアニメを観てから原作・米澤穂信の〈古典部〉シリーズを一気読みし、聖地である飛騨高山に一人旅をしました。最近アニメを一話から見返していますが、何年経っても色褪せない名作だと思います。
私がこの古典部シリーズの中で特に好きな話が「クドリャフカの順番」です。文化祭で出品する文集を桁違いで発行してしまい完売へと奮闘する古典部が、何者かによる文化祭での連続盗難事件を解決していく、というのがストーリーの大筋です。作中で描かれる人間ドラマが魅力の作品でもあります。
その一つに、話の中でメインキャラクターの一人である摩耶花が、兼部する漫画研究部である先輩と「名作」について討論を繰り広げるシーンがあります。漫研の出した文集「漫画レビュー100本」の売れ行きが芳しくないことで、元々それに反対していた先輩が「漫画の面白さなんてどれも同じ。読み手のアンテナの高さ、主観次第で名作にも駄作にもなり得る。ゆえに批評なんて意味がない」と主張するのです。それに対して摩耶花が「名作は最初から名作として生まれてくる。技術や才能の差は確実に存在する」と、自らが一冊の同人誌に心を打たれた経験を胸に反論します。
私は当時、先輩がそのスタンスを持った背景も含めて摩耶花の考えに完全に同意していました。私が胸を熱くし涙を流した「名作」たちは、最初から燦然と輝いていたはずだと。二次創作でも、読み手だったジャンルを離れてずいぶん経つのにある作品がずっと心に残っていたり、「何を経験したらこんなものが書けるんだ」と、感動を超えて一種の恐怖さえ覚えたことのある人は少なくないのではと思います。
でも、それらが何をもって名作 なのか、どういった作品なら名作になりうるのかを説明できない私は、先輩の言い分にも一理あると最近思ってしまうのです。これは私が数年前から創り手の端くれになったのもあるのでしょうか。
ストーリーが面白い、文章が、作画が美しい、テーマ性や人間の描き方が素晴らしい、賞をとった、売上部数が多い……など、世の中で絶賛される人気作が自分には面白さが分からなかったりする(先輩曰く「アンテナの低い人間」ってことですね!泣)経験もあります。逆にpixivタグで言うところの「もっと評価されるべき」作品がたくさんの作品の中に埋もれてしまっている可能性を考えると、「受け手の主観の問題」というのもあながち間違いではないと思うからです。
そして、私が先輩の言葉を理解し始めたのはたくさんの作品で溢れる世界で「自分の主観を大切にしたい」と思うようになってきているのもあるからだと思います。若い頃は世間で名作と言われる作品やベストセラーを中心に追いかけていた気がします。多くの人に響く作品というのはそれだけの魅力を持っていることは間違いないです。ただ、世間の評価に左右されてしまったり、自分が合わなかった作品について友人と意見が合いほっとしてしまうこともあります。
私にとっての「名作」かは私が決めたい。一次でも二次でも人気や評価が可視化されてしまう側面があるからこそ、自分の心で「素敵だ」「面白い」と思う感受性を大切にしたいです。