1〜2年ほど前、知り合いがやっているライブバーにヘルプで入った。彼は基本的に一人で店をやっていて、ときどきヘルプに入ってもらいながらなんとかやっていたのだが、抗がん剤治療を受けることになり、体調に波があるので、常にヘルプに入ってもらわないとやっていけないと困っていたのだった。彼は自分にとって恩師のような存在でもあったため、一度手伝いたいと思って名乗り出た。
その日は、非常に多くの出演があり、とても忙しい日だった。私の仕事は入場受付をし、ドリンクオーダーを聞くことだった。入場者が予約をしているか聞き、予約をしている場合はさらに名前を聞き、企画者から受け取ったリストと照合してその人がディスカウントになっているのかどうか確認し、それぞれが支払うことになっている入場料を支払ってもらうのだった。ドリンクはビールやジュースなど瓶に入っているものなら栓を抜いて提供し、その他作る必要があるものならマスターに指示を出すことになっていた。マスターは病気のせいなのか、抗がん剤の副作用のせいなのか、頭が痛む、視界がぐらぐらする、幻覚のようなものが見える……とかなり具合が悪そうだったので、ドリンクをお願いするたびに申し訳ない気持ちになった。
少し落ち着いてきたとき、女性シンガーソングライターにつきまとっている男性客が目についた。これがいわゆる「シンガーソングライターおじさん」なのだなと悟った。短く刈り上げた髪に麦わら帽子だったかバケットハットだったかを深くかぶり、柄の入った半袖のシャツとベージュの半ズボンを身につけた四十がらみの清潔感があるのかないのかわからない男。女性にしきりに何か話しかけ、ドリンクを奢るよと提案しては何度も断られていた。彼はハイボールを1000杯くらい頼んできた。その度に椅子に腰掛けて苦しそうにしているマスターに声をかけなければならず胸が傷んだ。いや、この件に関しては彼は何も悪くないのだが。彼はハイボールを渡すと、必ずその場で一口飲み、無邪気な笑顔で「おいしいですね!」と言ってきた。
正直、シンガーソングライターおじさんを見るのは不快だった。彼は酔っ払っているのか、他の出演者が演奏している間はほとんど俯いていた。たぶん、眠っていた。しかし、演奏と演奏の間の転換の時間になるとしきりに女性に話しかけていた。こうはなりたくないと思った。彼が「おいしいです」と言ってくるたびに返事に困るので、無視することにした。鼻につく礼儀正しさだった。
彼が500杯目くらいのハイボールを頼みにきたとき、何かを腹のあたりに抱えていることに気づいた。岩波文庫の青だった。まるで腹部を切られてしまった侍が、はらわたがこぼれ落ちないように腹を押さえているような抱え方だった。岩波文庫の青といえば、哲学書の古典の宝庫だ。彼は哲学書を読んでいるシンガーソングライターおじさんだった。
イベントの終わりが近づいてきた。女性シンガーソングライターは、ついにシンガーソングライターおじさんのドリンクの提案を受け入れ、りんごビールを飲んでいた。おじさんは上機嫌だった。さっきまではおじさんが一方的に話しかけているようだったが、りんごビールの効果なのか、二人の会話は盛り上がっているように見えた。おじさんがハイボールを頼む回数も増えてきた。
そのとき、彼が抱えている本のタイトルを確認することができた。なんと、ニーチェだった。『悲劇の誕生』。
その後イベントは無事に終わり、私は早めに上がらせてもらったので彼がその後どうなったのかはわからない。私が思うに、彼は今もハイボールを飲みながら、女性シンガーソングライターにしきりに話しかけているのではないか。こぼれ落ちるはらわたのような『悲劇の誕生』を抱えて……。