昨日、大好きなコヒ屋さんと、写真を見るとはどういうことか、現代アートを見るとはどういうことかと話していた。一言一句は覚えていないんだけど、一旦現代アートを理解しようとするのをやめて、その作品自体を見てみるのがいいんじゃないか、写真を見るのってすごく難しいよね、みたいな話をしてもらった。
「分からない」という話にもなった。すごく心に響いたんだけど、細かいことを失念してしまった...!!!!ただ、「おや、わたしはそもそも分かった気になって絵を見ていたけど、分かっていないことを分かっていないのでは...?」という気がしてきたことは覚えている。そして、とりあえず次行く展覧会はステゴロで挑むかと思った。ステゴロとは、説明文を読まずに、とりあえず絵を見ること。
それで今日、国立西洋美術館の現代アートの展示に行って、良いと思ったものだけ説明文を読むようにしてみた。
これが結構難しかったな。めちゃくちゃ言語優位な人間なので、そこに文字があったらまず読みたいし、文字を通して目の前のものが何なのか理解したい。終わった後にどの展示が好きだったか考えたけど、説明文やステイトメントがたくさん書いてある文字系の展示が好きだったことに気づいた。いつも通りすぎる。文字を読みたいし、それが何か教えて欲しい。アーレントとハーバーマスの公共性の話を読んでいる時の安心感、半端なかった。展示の解説の言語を何にするのか、国家による排除と包摂の話を読んでいる時も、ほっとした。
反対に、知識で武装せず生身で創作物の前に立つと、どうしていいか分からなくて結構困った。たくさんの絵の具に囲まれて、そこから先どうしていいか分からなくて、足早に立ち去ってしまった。
展示が終わった後にたまたま友だちと電話したんだけど、わたしが困って立ち去った展示が友達のお気に入りだったみたい。今回は心惹かれた時だけ解説文を読むようにしたので、その展示の解説文は読んでない。話を聞いていると、きちんと背景があり、面白そう。でも、あの場にいた時は本当に困っちゃったんだよな。色が押し寄せてきすぎる!!!と思って、壁に書いてあった「学校とは基本的に気持ち悪いところだ(うろ覚え)」という文字以外全部怖かった。作品それ自体と、そのストーリーが全く違う印象を与えるって不思議だな。それがいい時と悪い時があるね。
絵って、見た後どうしていいか分かんないな。正解が欲しい。こうやって見てくれ、という指示がほしい。それで、「なるほどね!受け取りました!!!わかりましたよ!!!」って思いたい。現代アートって、説明文ありきなところがあると思うし、だから見ていて安心してたんだな。それか、文字を読みたい。文字からならいくらでも感情を動かせる。
正解ばかり求める安直な若者になっとるね。あるいは、感情が揺れ動くことを重視し過ぎている。まぁいっか。
全然はなし変わるんだけど、今日はすごく照れちゃって、昨日はすごく励まされちゃった!はぴはぴ!みんな好き!
でもこのみんなって明確な排除ですよね。分かってるんですよ。でも言いたいじゃん、みんなって。博愛の顔、してたいじゃん。そうしたら、なんかちょっと許される気、しない?
インスタレーションは「あなたを支配するものはなんですか?」と問うていた。それに対して「家族」と答える人がすごく多かった。