3/22の日記

wostok
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高校の同級生と卒業して以来再会した。

自分の高校時代をあんまりよく思ってなくて、一部の今でも連絡をとるような非常に親しい人を除いて、高校の人たちのこともそんなによく思ってなくて、「まじか〜会うのか〜」と思っていた。わたしは卒業後何をしてるのかよく分からない人の典型例みたいな感じだし(今やってることで言えばわりと正統派ルートを歩んでるけど、興味ない人からしたら何してるか全然分からない気がする。クリケットの選手になりたいと国外に出た人がいたら、正直何してるのかよく分かんなくかなっちゃうのと同じ)、一体なぜみたいな気持ち。

実際に会って、何を話すんだろう。3人で会うけど、わたしたち学生時代に3人でつるんだこと皆無じゃない?会話もつ?いける?思い出ばなし尽きたら、無言になる?えーーーこわっ!

と思って兜町に向かい、4時間くらい話し込んで、時間が足りないまま解散しました。

気付いてなかったけど、わたしたちは全員インドに行ったことがあって、インドに行くということでまず盛り上がった。あの国に行ったからこそ得たものがある、雑草、生のよもぎみたいな野菜だけは本当に口に合わなくて辛くて残してしまって、いまだにあれが何か分からなくて思い出して困るとか、グジャラートの井戸ってどれ?どこ行った?とか、タミルはシンハラ文字だって、えっまじシンハラってそもそも何、スリランカやでそれは、あーーーそうだっけ、ノーヘルバイク3ケツしたら空気悪すぎて顔真っ黒、鼻毛って仕事するわ、など。押し売りの衝撃、ツアーのバスの中まで入ってくる強さ、タージマハルはまぁやばかったわね、など。

2人はマハラジャの宮殿に行ったことを話していて、「あの絵が良かった」「分からないなりに訴えかけられるものがあった」と言っていた。わたしも行ったし、行ったことは覚えてるんだけど、内装も何もかも忘れていた。何も残ってない。あの時の不勉強さ、無関心さの報いをずっと受けている気がする。いつまでそのツケを支払い続けるんだろう。ずっとか。あの時の不勉強のツケを払うことで生まれた今のツケを、未来の自分が払うんだ。でも、デリーで見た、ヒンドゥー教の神が削りとられ、ムスリームの寺院に変えられてしまった遺跡のことはよく覚えてる。みんな全部は覚えられない。わたしが覚えてないことを人は覚えているし、逆もしかりなんだ。

2人と別れたあと、イメージフォーラムに『ヴェルクマイスター・ハーモニー』を見に行った。初めてのタルベーラだった。

プラハで一緒に暮らしていた人が映画専攻の人で、タルベーラの『ニーチェの馬』を見せてくれた。長回しのワンショットで、現実から映画の中に引き摺り込まれたことを、昨日ことのように覚えている。あのときは馬が走っていた。

この映画は人が歩いている。1人、2人、みんな。限られたショットとセリフで繋いでいく映画だから、「歩く」という行為は、観客を次のシーンへと連れていく効果があるのかもしれない。分かんない。連れて行かれて、連れて行かれて、広場に残されたまま映画は終わってしまった。戸惑ってしまって、しばらくして、それぞれのショットがかっこ良すぎるなと思って、歩く男たちのことを熱っぽく語った。

映画の熱が冷めないので、シーシャを吸いに行った。『日本蒙昧前史』という本を持っていき、そこで読み終えた。日本の1960年代の歴史的事象を、個人にフォーカスしながら淡々と、時に感傷的に綴った本。作者のインタビューを調べてないから分からないけど、手法としては『エウロペアナ』に近いなと思った。

『エウロペアナ』はもっと歴史書然としている。そして非常に意図的に、歴史と文学の差異が問われる言語論的展開以後の学術界に、そのハイブリッドの可能性を提示している。わたしたちには分からない、何が歴史でフィクションなのか。歴史家だって分からない、史実があるのか、あるいは全てはテクストに過ぎないのか。

『エウロペアナ』もそうだけど、『日本蒙昧前史』を読んだ時、脚注がないことに美しさを感じた。脚注がないから、真実と虚構の間を行き来できる。文学だから、それがウリとして機能する。脚注はこちらの手の内を晒すこと、言い換えるなら歴史が科学であるための絶対条件なので、脚注がない歴史にはなんの価値もない。脚注は、すべてを見せたあかし。論旨を根拠づけるギプスのようなもの。すべて見せた時、そこにあるのは批判され尽くし、味わい舐めあらゆる角度から眺め尽くされ、無骨なギプスに変わってしまった史料で、そこには隠しごと特有の色気やメランコリーさのかけらも残らない。残してはいけない。でも文学はやはり文学だから、脚注がなくても機能する。むしろ脚注がないことによって全ての境界を曖昧にして、色気の源泉としての秘密の存在を仄めかしている。

歴史と文学の違いを論じたのはジャブロンカの『歴史は現代文学である』だったなと思って調べる。そうしたら第10章に「歴史は拘束された文学なのか」という項目があり、さらに「注の偉大さと悲惨さ」という節があった。注がなければ歴史は科学になれないので、偉大だ。でも注というギプスをまとったテクストに残るのは誠実さと信頼と拭いきれない不確定さだけで(すごく大事なことなんだけど)、その不格好さは悲惨だ。ジャブロンカは読んで忘れてしまったので、わたしと同じことを言っているのか確認しないといけない。多分違うことを言ってる。ガハハ。

家に帰ると、加速してそのまま星になりそうな話を耳にした。

わたしは星になるほど加速して、なりふり構わなくなったことがある?ないだろうな、きっとない、なんでないんだっけ、全部怖いから?あった方が良かった?姉妹たちは?いちばんしたの妹はそういうタイプだ、実母は?彼女の日記を読む限り、目が焼けるように眩しく、加速して、本当にそのまま星になった。父はその加速を知ってた?知ってた上で、わたしに日記を渡した?知らなかった?忘れた?母は、自分が星になった時、残した日記と手紙を父が読むことを予想していた?加速すらも自分の美しさだった?相手に、書いた手紙を渡せなかった?

そういうことを考えていたらますます眠れなくなって、ぼんやり朝が来た。まだ加速のことが頭の中をぐるぐるしていて、そのまま自分もわずかに加速するために油条を食べに行った。

まだ、3/22だ。

日付が変わったら、寝て起きたら、その日が終わるって誰が決めたの?ホブズボームは、19世紀は1789年にはじまり、1914年に終わると言った。コゼレックだって、時代区分の話をしている。時代の始まりと終わりは、一つの関心を持って過去を照らすことで浮かび上がってくるものだ。加速によって生じた思い巡らしは一晩経っても消えなかった。明らかに寝る前からの延長で、途切れず連綿と頭の中に考え方がわいてくる。それを無理やり区切って、3/23にする方が野暮で乱暴だろう。誰が何を言ってもまだ3/22だ。文句あったら電話ちょーだい。もう止まらない。もう止まらない。もう止まらない。

ボーン、と食堂の鐘が鳴り、11時がおとずれ、我に返った。もうすっかり3/23になっていた。

@wostok
日記を書いてます。