(人が亡くなりかけているさまを書いているので、注意して読んでほしい)
(人が亡くなった後のことも書いたので、注意してほしい)
(昨晩書いたものを今日加筆修正してあげているので、時系列がごちゃぁとなっている)
ー昨晩ー
祖母がいま亡くなろうとしている。もともと弱っているとは言われていて、そういう状況が6年ほど続いて、いま、ついに、亡くなろうとしている。
自宅で看取るということは聞いていて、ずっと親戚が世話をしにきてくれていた。祖母はアグレッシブになるタイプの認知症ではなく、幻覚を見るタイプだ。レビー小体というらしい。(レビー小体でもアグレッシブになる人はいると聞いたけど)幸いなことに、親戚が祖母から暴言や暴力をふるわれることはなかった。それでも、介護が肉体的に過酷であることはありありと予想がつく。わたしは、早々に関西から出て一切の責任を放棄して何もしていない。だから、特に何かを言う権利なんてない。ただ、自分の心がもたなさそうだなと思ったので、ここに書く。それだけは許してほしい。誰も許してくれなくても、自分が許すよ。ただ辛い。
ひとの命の灯火が消えるのを間近で見るのはすごく怖い。
昨日(2日前)の夜帰ったら、親戚が泣いていて、「祖母はもう2、3日もたない」と言った。知らなかった。本当になにも知らなかった。2週間前に実家にいた時は元気だったし、あとひと月は大丈夫に見えた。それが突然。
「どうなの?実際」
「見たら分かるから」
そう言われて、奥の祖母の部屋に向かった。怖かった。部屋に入ると、横たわっている祖母が、乾燥した空気のなかで息をしていた。長くないなと思ったし、命の灯火が消えかけているとはこういうことだなと実感した。死が部屋に充満し、それが自分にまとわりつくのを感じる。息が詰まった。
聞くと、この数日で突然弱ったらしい。教えてよ、と思った。その日の晩は京都で遊んで外で夕飯を食べて、それから帰省した。知っていたら、多少早く帰ったと思う。せめて、教えてくれたら、いきなりショックを受けずに済んだ。知らせない親戚と実父のことが怖かった。
そのように訴えると、「でもあとしばらくは大丈夫だと思う」「死ぬって言って大袈裟にしたくない」「まだ死なない、いつ死ぬんだ?って思われたくない」「話せない状態の時に人を呼んでも意味ない、亡くなった後でいい」とのことだった。
なぜわたしに知らせなかったのかはさておき、の他の人たちにも、死ぬ前の祖母と会うかどうかの選択権は与えるべきだよ、と思った。これは今日(昨日)の夕方合流した妹が言っていたことだけど、別れや死に際というのは生者のためにある。別れる機会を奪う権利があるのか?実際わたしは何も言われていなくてとてもショックだよ、と思った。そしてそのようなことを伝えた。
しかし親戚の決心は固いようで、何も言えることはないなと思った。ずっとやってきてくれたのはこの人だし、私が言えることなどない。私が今思いつくことなんて一通り考えただろうし。理解できないし納得できないけど、黙ろう、黙るべきだ。そして黙った。
私が黙り静かになった部屋で、エアコンが空気を吐き出す。空気が乾燥している。湿っぽく重たい死と老いの気配の濃さに比例するように、空気が乾燥していく。祖母の舌が乾いている。苦しそうに咳をして、むせている。
「加湿器を買わないの?」
と聞いた。普通の人間でもこの部屋の乾燥した空気が辛いのに、口を開けたまま寝ている祖母にはもっと辛いだろうと思った。加湿器で緩和できるなら、安いものだし、すぐにでもやった方がいいんじゃないかと思った。安価なお金で買える快はすぐに買うべきだ。
「濡れた洗濯物を干していたけど意味がないから」
とのことだった。支離滅裂だ。濡れた洗濯物は加湿器じゃない。加湿器を試してもないのに、何を言っているんだ。明らかにここの空気は祖母を苦しめている。せめて苦しみを取り除いてやりたい。加湿器が2つ増えたことによって、手間が爆発的に増えるとは思えない。祖母がそれを必要としなくなったら、リビングでだって使ったらいい。私が買い取ってもいい。空気の乾燥は不幸を運んでくるんだ。なぜ快を買わないんだ。この前買っていた車はいくらした。いま嬉しそうに言っていた月収の何分の一なんだ、加湿器は。
そこで気付いた。この家の人たちは快のためにお金をかけない。お金をかけず質素であることを誇る。お金を払うところには払うのに、趣味のための道具には、アクセサリーのためにはいくらだってお金を出すのに、みんなが快適になるためのお金は出したがらない。
しんどいなと思った。わたしはこういうところが心底嫌いだった。そして、いま東京に自分の家があって、そこで快適な生活を作れることが心底嬉しかった。それと同時に、言語化できてしまった不快感と分かり合えなさがのしかかった。エアコンが吐き出す乾燥した風を深く吸い込み、今ここで買いたことを息にして吐き出した。
「仕方ない意味ないで済ましてたら社会なんて変わらんよ、学生運動は何のためにやってたの」
と言うと、実父は、
「それを言われたらどうしようもないなぁ」
とバツが悪そうにしていた。これは甘えだ。責任を負わない部外者が偉そうなことを言っても許してくれることを知っている。糾弾しながら甘えている、吐き気がする。
これが昨日(2日前)のことだ。
いま(昨晩)は、祖母の部屋にいるのが辛くなって、風呂の中にいる。夕方2時間、祖母の部屋で過ごして語りかけた。先ほどまた、祖母の部屋に呼ばれて、語りかけるように親戚から言われた。分かってる。気持ちは痛いほど分かるけど、自分の心がもたない。昨日まで知らなかった近しい人の死の気配を何時間も浴びることの、心の準備ができていない。一度休ませて欲しい。少しだけ、死以外のことを見させてほしい。親戚はずっとかかりきりなのに、なんて甘えた態度だろうと自分でも思う。でも、でも。変わってしまった祖母に話しかけるのが怖いのだ。
いまでも祖母は死にかけている。知っている。でも、直視をするのが辛くて、本当に辛くて、今日の昼も家からいなくなったし、今も風呂にいる。直視すること以外許さない親戚の姿勢も辛いなと思う。時間がないのは分かっているけど、自分の面倒を見てくれた母とも言える人の死との距離は、自分で決めさせて欲しい。育てのハハが家を去ってから、選択させることは暴力だと思ってきた。いま、選択できないことの不安で潰されそうになっている。自分の距離で、最後一緒にいたい。ただ、自分と祖母の間合いで。
自分が楽になりたい一心で、加湿器を2つAmazonで注文した。許された、何かしたという気持ちを買いたかった。加湿器が早く届きますように。何よりも早く。
ー今日ー
これを書き終えて風呂から上がると祖母の容体が急変?していた。呼吸が荒く、時折止まり、顔色も悪かった。なんとなく新年は生きていると思っていたからびっくりしてしまった。
その後祖母は穏やかに息を引き取り、今日は色々なことをやっていた。
親戚の、祖母の死から目を逸らさせないという姿勢は辛かったけど、一晩経てばありがたいものだった。わたしはあの部屋にいることが辛くて逃げたので、無理矢理でも一緒にいる時間が増えて良かった気がする。少なくとも、一緒にいたという気持ちになれて、後悔の念が少ない。辛かったけど、良かった。良かった。最後一緒にいられて。
加湿器は間に合わなかった。いま思うと、加湿器なんていらなかったのかもしれない。元々自分のエゴのためだったし。でも、少しでも祖母のために何かをしたという気持ちになりたかった。仏前に備えようかな、加湿器。この家の人たちが、少しでも快のためにお金を出すようになったらいいなと思うけど、これもエゴだなぁ。
祖母が亡くなってから、末の妹と話した。彼女は外国にいるので、とても悲しんでいて、辛い気持ちになった。「おばあちゃんが天国で見ているから」、「天国で喜んでくれているよ」という声を掛け合いながら、あの世は生きている人間のものなんだなと思った。あの世で許されるのは生者だよね。許されたい、悲しい、そういう気持ちをあの世はすくいあげてくれるんだな。
なお、祖母の命が尽きかけていることを知らなかったのは、三姉妹のうちわたしだけだった。祖母に1番可愛がられ、1番お世話になったのはわたしだったし、全員がそういう認識だったのに、なぜかわたしだけ知らなかった。次女も三女も数日前に祖母のことを聞いていて、わたしが知らなかったことにショックを受けていた。実家怖。どひゃすぎる。おしまい。