12/29の日記ー京都編ー

wostok
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この日は朝起きて、寝ぼけ眼をこすりながらコーヒー屋さんに行って、その後コーヒー屋さんに行って、そこからさらにコーヒー屋さんに行くという日だった。後半はラーメンを食べて、本屋に行き、アンビエントを訪ね、自転車を爆漕ぎして最後にカレーを食べた。

全部書くとすごく長くなってしまうから、3軒目のコーヒー屋さんのことだけ書こうかな。

『鈍考/喫茶芳』というコーヒー屋さんに行った。友人発案である。友人の提案はいつもひときわ素晴らしく輝いている。その人の周りは情報が濁流のように渦巻いていて、その濁流はキラキラと光っており、近づくときらめきに飲み込まれるような感じがする。時折、そのきらめきの一欠片を渡してくれることがあって、そのたびにじんわり嬉しくなって跳ねる。話がそれてしまった。喫茶芳さんはもともと四谷付近にあったお店らしいんだけど、わたしは中欧にいたので行けたことがない。いまは、京都の山奥に位置している。

地下鉄烏丸線に乗って、国際会館駅まで行って、そこから目的地までタクシーで移動する。山があらわれる。京都は盆地だな、市中が終わってその外れに来たんだ、ということを実感させられる。ゆるやかな山に寄り添うように、住宅が並ぶ。この辺りは高級住宅街なんだと運転手が教えてくれる。そうなんだ。確かにいいだろうな。自然がすぐそばにあって、街中まですぐに行ける。プラハの6区みたいだ。あそこも、自然がすぐそばにあって、街中までわりと近かった。

予定時刻より少し遅れて芳に着く。そろーっと入り、そろーっと案内され、この建物が堀部安嗣の作品であることを知る。建築のことは何も分からないけど、すごく居心地がいいなぁと思った。掘り炬燵のカウンターがあって、そのカウンターに背をもたせかけると、正面奥には縁側に出るための大きな窓が見える。縁側の先には杉林が広がっている。窓から見える景色は、自然を切り取って絵にしたようにも見える。昔兵庫の山奥にあったソボの家を思い出す。あそこはもっと田舎で、名のある建築家が建てた家ではなく、森を眺めるタイプの家でもなかったけど、やはり窓から杉林が見えて、自然の真横にあった。

『鈍行/喫茶芳』は私設図書館も兼ねていて、自由に本を手に取って読むことができる。

知らない図書室というのは貴重だなと思う。偶然たまたま図書館によく行く人生になってしまい、色々な施設の図書館にフラフラと行く。知らない図書館でも、分類の規則はある程度共通しているので、どこに何があるのかなんとなく分かる(分からないことも多いですね、誇張しました)。そもそも明文化された規則によって本は居場所を決められてしまう。そしてさらに、目的を持って図書館に行くので、何の本があるのかあらかじめ知ってしまっている。

でもこの私設図書館には分類番号がない。200も300もない。読んだことある本、知っていたけど積読にしている本、知らないけど面白そうな本がわんさか置いてある。そこにあるもの全て面白そうなのに、何があるのかよく分からない、まるで宝箱のようだなと思った。本は何かしらの規則性を持って並んでいるように見えたけど、何かあったのかな。テーマやジャンルごとに並べてあるけど、シームレスに、気付かないうちにその境界を飛び越えてしまうような感覚を得た。見事だなと思っていた。

この日記を書いているなかで、あの図書館は本のセレクトショップ的な、そういう雰囲気をたたえた場所であったことを思い出した。私設図書館をつくったのは選書をお仕事にしている人なのだっけ。そうだったよね?技術と経験が遺憾なく発揮されている。受け手として純粋すぎるかもしれないけど、やはり見事である。クサくても、やりすぎでも、1つの形を正確に描く仕事は見事なのだ。

私設図書館の窓際の本棚からポーランドっぽい苗字のような人の写真集をとりだす。野生のペンギンとアザラシとバッファローらしき何かが白黒の平面になっている。それをしまって、新しい本を手に取る。本を軽くめくっていると、一杯ずつ淹れてもらうネルの深煎りコーヒーが差し出された。ついにわたしの番が来たようだ。コーヒーを持って、窓を開けて縁側に出て外で本を読む。わたしが縁側に出た時は、友人が部屋の中に入る時だった。わたしが外に出る前は、もう1人の同行者が縁側にいた。今は1人だ。その時持って出たのは、チェコで暮らす人のエッセイである。

出久根育さんの『チェコの十二ヶ月ーおとぎの国に暮らすー』を開く。素敵なエッセイに素敵な絵がはいった本だった。本を読んでいる時は忘れていたんだけど、お世話になっている先輩がこの方のカレンダーを購入されていた。味のある、優しい絵なのだ。

出久根さんは長くチェコにお住まいらしくて、どこかですれ違っていたのかなぁなど思いながらページをめくる。我ながら、いつになってもどこに行ってもチェコの本ばかり手にとっているな、そのわりにこの本を今日まで知らなかった、まぁいいや、運命の巡り合わせであろう、わたしがチェコの方を向いている限り、チェコはわたしの胸に飛び込んでくるのさ、などなど。

そんなことを考えながら読んでみてびっくり、わたしが知っているチェコとは全く違う生活がそこにはあった。

わたしのチェコは、社会主義で暗くて楽しくて夏は空が高く青く、マリファナのかおりがして、ベルリンの真似をしたオルタナティブ・カルチャーが盛んで、夏の暗闇がじんわり増える時にきらめきだすオレンジの灯とともに、丘の上の公園のオープンDJで踊るということだ。わたしのチェコは言ってしまえばプラハであり、そのプラハは都市なのだ。

その人のチェコは全然違っていた。この人は季節を見ていた。そういうコンセプトで書かれた本なので当然なのだが、季節を自然から感じ取っている様子が事細かに書かれていた。野草や樹木は人間が踊るための後景ではなく、人間に訴えかける主体なのだ。都市ではないプラハがそこにはあった。

そして、この人はプラハから出てさまざまな街へ行っていた。この人のエッセイを通して、「Divadlo Continuo」という劇団を知った。モラヴィアで、野外演劇をやっているのだとか。全く知らなかった。惜しいことをしたなと悔やむ。また、この人は気軽に、背負わずにチェコの人と会話をしている。この人のエッセイいわく、チェコ語は難しく、いろいろと大変なこともあるらしい。本当かどうかは知らない。わたしにとって、チェコ語はそんなに難しいものではなかった。難しいけど、英語に比べればなんてことはなかった。それでも、チェコの人と自然に話せただろうか。いつもかっこよさのようなものばかり気にして、全部嘘の会話だったんじゃないかと思えてくる。

知らないチェコがある、知らない生活だ、同じ街にいたのに。絶対に交わらない平行線の先をのぞいたような気持ちだった。何百万回引用された、カズオイシグロの「縦の旅行」ってやつだと思う?ちょっと違う感じはあるよね。どうだろう。

カタンコトンカタンコトン。遠くを走る電車の音がして、本から顔を上げる。兵庫の田舎で聞いた、ワンマン電車が走る音に似ている。杉林の中では小鳥が鳴いている。ほほをわずかにあたためる程度の太陽光がまぶしい。水の音、ゆらゆらとふく風、遠くに聞こえる判然としない人の声、木々があわさり草が揺れる音、自然のざわめき、それらに包まれて、いまの季節、時間、場所、何も分からなくなっていく。このまま輪郭を失ってこの景色のなかに溶け出してしまえれば、どれほど気楽でいいだろうか。全部投げ出して、何もかも終わりにしてしまって、この澄んだ空気のなかに溶けていってしまえれば……という思い巡らしは、喫茶芳の方がお水を注ぎに外に出てきてくれた音で中断された。お礼を言い、コーヒーを飲み干して、水を持って中に入る。コーヒーはすっかり冷たくなっていた。

@wostok
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