調子が悪いので病院に行ってくすりをもらって飲みはじめた。
みんなには世界がどう見えていますか。
わたしはいつも、自分が外界から干渉され、無防備に晒されながら生きているなと思っていたよ。
コンクリートに照りつける太陽はまぶしく、そのまま自分の心臓をさすようなだと思う。濃い新緑を生み出すその光、緑、影、光のコントラストは息を呑むほど美しいけれど、油断をするとそのまま息が止まってしまいそうになる。あるいは、そのまま美しいものを見たまま、息が止まって、おわりになってしまったらいいのになと思う。美しいものってわたしにとっては確実に暴力で、わたしの身体まで押し寄せ、飲み込み、どこかへ攫っていこうとする。高く、空まで身体が押し上げられていって、そのまま薄桃色をした空に溶けていければいいのに、みたいなそういう気持ちで歩いている。
じゃあ美しくなければいいのかというとそうではなくて、道端のなんでもないゴミを見て、嫌な記憶を思い出し、そこから嫌な気持ちが自分に語りかけてくる。自分が持っている最悪の記憶の博覧会スイッチがはいってしまうともうだめで、街にあるもの全部を使って、ナイトメア連想ゲーム大会が始まる。
友達(だれのことも具体的に思い出してないよ、じぶんの人生の記憶ある限りすべてを思い出してるよ)の何気ない笑顔とか、一言とか、目線とか、そういう何の意味も付されていない、ただ事実としてそうあるもの全部に意味が宿ってしまって、じぶんの身体がどんどん意味に沈んでいってしまう。わたしが勝手に作り出した意味が、身体のなかに毒として入り込んでいく感じ。友達はほんとに何も悪くない。間違えているかもしれない、という脅迫感みたいなものに追われて、その場からどこにも行けないのに心だけ走り続けている感じ。
美しくてもそこにいるのが難儀だし、醜くてもやはり難儀。しんどいって感じ。いま何時。3時。7時間後には地の果てに...?マジ...?でもみんなもこういうことあると思うんだよ、あるいはなかったのなら、それっていいなって思う。
とりあえずずっとこういう感じで、4月からこういうのがどんどんひどくなっていって、まずすぎ〜〜〜になってしまったので、くすりをもらった。
飲んでみると、じぶんが優しい膜に包まれて、無防備ではなくなるような感じがする。わたしの心を切り裂いていた美しい太陽光は、膜のなかに入ってくるときに、意味も鋭さも全部削ぎ落とされてしまう。明るい。それだけ。
誰かが何かを言ったとき、膜の中に何かが入ってこようとするけどほとんど何も入ってこない。ごくわずかな意味の残滓みたいなものが、わたしのからだに少しだけ触れる。ほこりかな?とごくわずかに反応する。それだけ。
あたまがぼーっとしていて、連想ゲームがはじまらない。目の前のものを、目の前のものとして処理して、ものとして理解する。しゅくしゅく。
そのかわり、茜色の空を見ても、海が綺麗でも、感情的な場面を見ても、心はあんまり動かない。それらが膜を通ってわたしのからだに触れるときには意味みたいなのが全部削げ落ちていて、事実としてあるだけ、って感じ。
夕焼けを見たとき、くすりを飲んでいなければ、「燃えるような空の色を見るのが高校生のときすごく好きで、それが救いでもあったな、海辺以外あまりどこにも行けなくて、1人で灯台の下でうずくまって、陽が沈んだら家に帰ろう、沈むまでは帰らなくていい、写真を撮りたい、あの陽の向こう側に行って、もう帰ってきたくない、そういう日があった...」と思って落ち込む。
くすりを飲んでいれば、「空が赤くてうろこ雲になっている〜〜」でおしまい。
この感覚はまだ自分にとって新鮮でたのしいので、書いてみた。感じることは少ないけど、楽でいいなって思う。喜びも絶望もあんまりなく、ただ凪いでいる。ずっと凪いでいてほしい。こういうことを知れたのも、医療へアクセスできたのもひとえにひとりの大切な友人のおかげなので、ほんとうにありがとうって思っているよ。ほんとにありがとね。
でも根本的にはどうしたらいいんだろ?ブログなどをやめ研究に専念することやろうね。がはは!