ACIDのレセプションパーティーにいく。パーティーが好きである。人々が装って楽しそうにしている。京都に行った3人で行った。mazelabの豆を共同購入のフォロワーさんに渡す。初めてのオフ。照れちゃうね!
ACIDから千駄木のにすにすに移動する。夜営業のコーヒーを飲みたかったんだけど、閉まっていた。残念!
その後、友達とそのまわりを徘徊する。
友達の方がこの辺りに詳しく、わたしは目的地まで友達についていくことにする。ついていくというのはなんだか申し訳なく、自分に役割がないとそわそわしてしまう。でもこの土地は友達の方が詳しいし、甘えてしまおう。誰かに甘えられるなんて、毎回じゃないんだし。
友達はわたしが(たぶん)通ったことがない細くうねった道を器用に進んでいく。先が見えないし、どこにもたどり着けないような道を、その人は確固とした足取りで歩いていく。むかしここが川だったこと、いまは暗渠であることを教えてくれる。いま調べたら、暗渠についての本が見つかって「へび道」と形容されていた。たしかに蛇の腹の上を歩いているみたいだった。
何年もまえの記憶がいまの自分に覆い被さってくる。あの日は東京に遊びに来ていて、春で、根津神社と赤門に行ってみたくて、その時にたしかこの辺を通ったはずで、そして見知らぬギャラリーに行ったんだ。東京のなかにこんな迷路のような路地があると思ってなくてびっくりしたから、よく覚えている。ギャラリーもとてもいいところで、しばらくの間は展示の案内などもらっていたんだけど、捨ててしまったな。友達にこの辺りにギャラリーがないかと聞いたら、たくさんあると返ってきた。「下か上か、どっちのギャラリーでしょうか」、「ここは下ですか、上ですか」、「下ですよ」、「どうだろう、うーん下のような気はしますが...」。いつかたくさんの中から、「あの」ギャラリーは見つかるのだろうか。
ぼんやりと暗闇を照らす個人店のぬくもりがぽわんと光っているのが時折見えるだけで、あとは静かに眠っている蛇の腹のうえをわたしたちだけが歩く。誘蛾灯に惹かれる蛾のようにぬくもりに近づき、跳ね返されるように蛇腹にもどる。ここではないどこかに続いているような、細い道のなかをすり抜ける。公的な道を歩いている自分たちが、だれかのごく私的な空間に触れる。でもやっぱりわたしたちは公的な場所から他人の私をなぞっているので、なじまないまま表面をすべりおちていく。すべりおち、腹の上で跳ね、再び歩き始める。もしかしたらもう蛇の腹の上を歩いているのではなく、本当に蛇の腹の中に向かっているのかもしれない。あるいはそのなかに、とっくに飲み込まれているのかもしれない。どこかで境界が変わって、ここではないどこかに入ってしまったのだろうか。
蛇の腹はわたしだけでは歩けないなと思う。この静かな暗闇は、「わたしたち」でいるから、この瞬間を優しく包み込んでくれる。もし歩いているのが「わたし」だけだったら、蛇はすぐ目を覚まして、こちらに牙を向き、「わたし」を飲み込んでしまうのだろう。「わたし」、若さを失いかけている女、小柄、非力。「わたしたち」はこの蛇腹を闊歩する主人公になれるけど、「わたし」だけだとどうだろう。きっと別の蛇が主人公で、いるかいないかも分からないその蛇に怯えながら、足早に蛇の腹から立ち去るのだろう。それでも今日はここを闊歩しているのだから、それでいいじゃないか。
赤い光が見える。救急車だ。1人の男性とすれ違う。男性は興奮しているとも、驚いているとも言えるような様子で、「すごいことになっている、見れるなら見たほうがいい、あそこの公園の先だ、この世のものとは思えない」というようなことを言う。どうにかしてそこに向かうと、タクシーが住宅と電柱のごく狭い隙間でひしゃげ、何かに食いちぎられたかのように大破していた。どうしてこんなことになっているのだ。この世のものとは思えない、という先ほどの男性の声が思い出される。この世のものとは思えない。この世のものが成し得たこととも思えない。もしかしたらあのタクシーは蛇に食われ、飲み込まれてしまったあと、どうにかしてこちらの世界に戻ってきたのだろうか。今晩牙を剥かれるはずだった女の代わりとなり、食われ、咀嚼され、モノとしての尊厳を奪われてしまったのだろうか。
気づけば蛇の腹からは降りていて、見慣れた街のなかにいた。建物にはばまれ先ほどまでいた場所はもう見えず、あの静けさも、先ほどのことも嘘のようだった。目の前を走る無傷なタクシーを見ながら、帰路についた。