徒然草 第九十三段 「人が生を楽しまないのは、死を怖れていないからである。死に近いことを忘れているからである」
生きていることを素晴らしく思うことって、どうやったらできるんだろう? 生は希少で価値があるものだという意見にはたしかに賛同できるけれど、自分自身の今生きていることを、それだけで素晴らしいと思うことはなかなかできない。生きているからにはより良く生きたいし、よりよく生きられなければ、別に死んでもいいかなというのが実感に近い。より良く生きて、常に目標を持って、将来の夢を考えて、そのための努力をして。これは、小学校の頃から学校や家庭で教え込まれてきた価値観だ。大人になってから引っこ抜こうとしても、なかなか抜けてくれない。
例えば明日死ぬとして、私はその最後の1日を楽しむことができるのだろうか? 明日じゃなくて1週間後でも、1ヶ月後でも、1年後でもいい。命の終わりが明確に見えたとして、それでも生きることを楽しめるのかどうかわからない。周りの人を悲しませたくないからということが、私が死を選ばない理由の大部分を占めている。次に大きな理由は、死へのプロセスが怖いこと(死そのものはそこまで怖くないけれど、それに至るまでにはどうしても身体的にかなり苦しまなければならないように思う。飛び降りてぐしゃ、となるとか、水の中で苦しいとか、息ができないとか。それが怖い。)。
生きることはそれだけでお金もかかるし、なにより面倒だ。死ねるならその方が楽だとも思う。
だけど、それは今の社会がそうであるからということよりも、自分自身が自分に課しているハードルが無闇に高いからなのかもしれない。
自分は愚者であるという自覚と戒めを、謙遜ではなく心に留めておくことができたのなら、何かが変わるかもしれない。こう書きつつ、そんなことあるか? 本当か? と思う私が心にデカデカと鎮座している。
兼好は言う。
「命あることを喜び、日々を楽しまねばならない。愚者はこの楽しみを忘れて、いたずらに苦労をして余の快楽を求め、生きているというこの尊い財(たから)のありがたみを忘れて、虚しく他に財を求め、ついに心が満たされることがない」