午前中に起き上がることができて、学校がある日は準備して学校まで行ける日。庭の花たちに水やりができる日。お腹がすいたらキッチンまで移動してご飯を用意し、食べることができる日。今の私にとって調子がいい日は、元気だった頃の当たり前ができるだけの日だ。
調子がいい日を、調子が「いい」日と称しながら、それが私のデフォルトだと思ってしまっていた。
本当は調子が悪い日がデフォルトで、調子がいい日は単純に上振れてるだけだと気がついた。
卯月コウの去年の誕生日ボイスを聞いた。うつになって動けなくなってしまった「俺」をお風呂にいれてくれるという内容だ。
「お風呂、入れなくなっちゃったか」
序盤のこの一言で、涙が止まらなくなった。お風呂に入らなくなったことを認めてくれる人がいた、と思った。自分ですら今の自分を認められていなかったことに気がついて、そして、お風呂に入れない自分をようやく受け入れることができた。
当たり前のことが当たり前にできない。病気の性質上仕方ないことなのに、いつまで経ってもそれを自分で認めてあげることができないでいる。
なにも「できない」自分ではなくて、なにも「しない」自分を許したい。
療養のためにしっかり休むことが大事なとき、なにかできるとしても、なにもしないことを積極的に選んで自分を休める必要がある。
勉強ができるとしてもしない。ゲームができるとしてもやりすぎない。そして無為とも思える時間を過ごして「時間を無駄にしてしまった」と思わずにいること。これがとても難しい。
お風呂に入らなくても、なにもできなくても、頑張らなくても、それでいいと真に思えること。心からそう思えたら、きっとこの病気は早く治る。
「早く治したい」と思うことすら、早く治すことを妨げる気がする。思ったように回復しなかった時に自分を責めてしまうことにつながるからだ。
早く治らなくてもいい。ゆっくりでいい。頑張らなくていいし、頑張れなくて当たり前。
どうしてそう思えないかというと、いままでの人生で自分に多くのものを課してきて、そのおかげで成長したからだ。
そしてその成長は間違いなく自分にとって良いことだったと思っている。だから、成長できない時間を過ごすことは悪。いま休んでいることも悪。頑張らないことも悪。
これは間違っていることはわかるのに訂正不可能な思い込みだ。心から納得がすることができたら少しずつ修正されるのかもしれないけど、その修正を試みることすら「頑張る」に含まれる気がして、もうよくわからない。
考えすぎだ、とよく言われる。そうなのかもしれない。でもやめ方がわからない。「ちょうどよく考える」なんて可能な事なのだろうか?
休み始めたときは3ヶ月くらい休めば戻れると思っていたのに、その6倍の月日が流れてもなお、まったく元に戻れる気配はない。寛解には10年かそれ以上かかる覚悟が必要だと頭ではわかっているつもりなのに、そんなの全然受け入れられない。
2024/2/7