なぜ本を読むのか

wtnbt
·

なぜ本を読むのか、ということを最近少し考えている。いうまでもなく、こんなことを考えるようになったのは、『紙魚の手帖」でSF書評の連載をしているからだ。前後二ヶ月のSFの新刊の中から、エンターテインメント文芸誌の読者に向けて数冊を選んで紹介するという書評欄には、当然ながら時評的な意味合いがあり、その月々に出る新刊を、すべて読むとはいかなくても大まかには目を通し、自分なりの基準を作って「これを」と思ったものを選択していくわけだが、同時に、現在のSFという一種の状況(情況という言葉もあった)論的な視点が必要になる、というよりも付随的に立ち上がってくるのを自覚しないわけにはいかない。それは批評家として必要なことだし、大切な仕事の一部分である、ということは前提として、しかし、そのことをあまりに自然に受け入れていると、本を読むという行為が「業界」的な、せいぜい「ジャンル論」的な思考の溝にどっぷりと浸かってしまい、もともと自分がなぜ本を読んでいるのか、本を読むことが自分にとって何なのかを見失いそうになる、ような気がする。というか、実際のところは、そういう思考に慊らないというよりも、必然的にそれをはみ出していろいろ考えてしまう、ということなのだ。

というか、おそらく自分は考えるために本を読んでいる。ぼんやりした、あるいはうっすらと自分と外部を隔てる膜のような何かがつねにあるのを意識していて、これはなんだろうとずっと前から思っていて、いつもそれについて考えているわけだが、本を読むと、考えることが明快に、またもっと複雑になるような気がするので、なんというかふらふら考えるために目についたものを読む。だから本当はとくにSFとか小説とか文学とかに強い関心があるわけではない。それは何かぼんやり考えていることの副産物のようなもので、いつもそういうことではないのかもしれないなあとどこかで思っている。本を読むのが趣味と言うほど楽しんでいるわけでもなく(いや、楽しいことはもちろんたくさんあるのだけれど、それはご飯を食べても眠っても楽しいのは同じなので)、知識が得たいわけでもない。むしろ暇つぶしと言ったほうが実情に合っている。だから、やっぱり自分にとって本を読むという行為は孤独なもので、そうでなければならないような気がする。