こんなもん、足枷以外の何物でもない。
私だって、なんでもよくありたかった。これはこだわりを捨てたいという気持ちと、こだわりのない人間になりたくないという気持ちとの葛藤の話。
私はたまに絵をやる。まぁ、上手くはない。自覚があるので、「絵を描く」とはあまり言わない。私にできるのは、ギリギリそれがなにであるか認識できる程度の線を引くこと。描くというよりは作図のほうが近いからだ。
ペンタブとか持ってないし。マウスで全を作業している。でも下手なペンタブより高いよ、ゲーミングマウスだからね。閑話休題。
自覚してる下手くそのくせになぜそれでも続けるのかというと、これがこだわりなんだな。
確信を持って、私の表現は私にしかできないと考えている。これがなければどれだけ楽だったか。
生成AIがさ、リーガルな話は置いておいて、まぁまぁまともで高品質な画像を作れるようになったじゃない。そんで、それを使う人々の間で知見やプロンプトなどが共有されている。ある程度自由に任意の画像が作れるのなら、オリキャラなんてそれでいいじゃんというフシもある。
理論はわかる。でも納得はしない。AIの生成する画像には、意味がないから。生成元のプロンプト以上の意味を持たない。
「ある程度の自由」では駄目なんだ。脳内にしかないものが直接出力できない限り、私はどれだけ苦労してでも自分で作業をするだろう。しょせんあれらは「人間に見えるなんらかの画像」でしかない。そこには魂がない。
似た理由で、オリキャラのSkeb依頼をあの子たちを知らない人にはたのめない。見た目だけ同じ女の子の絵があったとしても、そこには意味がないから。それはあの子たちではない。
スピリットの話だ。意味や意思の話ともいえる。
映画の感想だって、自分で書かなきゃ意味がない。検索して似たような感想を見つけて納得できるような性格をしていない。その感想と自分のとの間にあるその差分こそが人間を人間たらしめる。違うんだ。だからこそ、自分で書かないといけない。
ただし、それを他人に伝えるのは至難の業だ。ことばは不完全だし、私は技量不足だし、時間だっていくらあっても足りない。
でも、やるんだ。私の表現は、私にしかできないから。なにを考えているのかわかるのは私だけなんだから。
これが足枷だ。一生にわたって苦しみ続けるであろう不治の病のひとつであり、愛しい生涯のパートナー。
いつか死ぬまで、よろしくたのむよ。