否定から入る習性とは

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 嫌われがちな習性。発言の全てが「いや、」からはじまるとか、そういう否定から入るやつ。やりたくなる気持ちはわからなくもないな、と思う。

 というのも、乳児がなんでもかんでも舐めるのは、自らの存在の輪郭を知覚するためだと言われる。舐めて感覚があれば自分、そうでなければ他人。原始的な手法だ。

 これは無形のものでも同様で、自らの存在を示すには他人との違いを意識する必要があるんだと思う。私はAではない、Bでもない……そうして自分以外のものを排他した先で、ようやく自分の存在の輪郭があらわになる。

 同じだと思う。思考の中心が自分の意見である人は、誰と何を話していても、他人と自分との意見が食い違う部分に注目しているのだろう。自分でもよくわからない、自分というものの輪郭を掴むために。

 悪く言えば自己中心的なんだろう。他者が介在するコミュニケーションの場で嫌われるのは仕方のないことなのかもしれない。

 他人に寄り添うことも重要だけど、それをやり過ぎると自分の意見――ひいては存在自体が曖昧になだちゃうだろうなとも思う。

 塩梅は難しいね。きっと多くの人はそんなこと考えずに生きているんだろうけど、自分の思考が他人の意見に塗りつぶされることが恐ろしくはないのだろうか。

 

 

 

 どうでもいいね。今日もふんわり生きていこう。私はそうはしませんが。

@xa
副作用は夢を見ること