近いうち、オトナ帝国の逆襲が名作でなくなる時代がくるということ

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 劇場版クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲、知ってるかな。知らないなら見たほうがいい……と言えるか言えないかわからなくなってきている。だって、伝わらないから。

 あれが名作か名作でないかと言われれば、私は間違いなく名作だと断言する。

 ではなぜ勧めづらくなってきているのかというと、あの作品は昭和を知り平成を生きた世代でないと通じない魅力があるから。私は、あるいは私達は、あの作品に満ちる昭和の香りを嗅ぎ取れる最後の世代だ。

 

 作品の面白さの尺度のひとつとして『リアルタイム性』というものがあると私は考えている。わかりやすく例えるなら、学校のテストだ。

 テストが終わった直後から答えが配られるまでの間、友達とテストについてあそこが難しかったとか、ここはこうだよねとか、そういう話をするよね。ああいった面白さ。

 魔法少女まどか☆マギカとか、けものフレンズ1期とかはそういう面白さが多分に含まれていたと思う。今になって一気見すると、当時思ったほどの面白さはない。

 そういう意味では週刊連載とか、毎週何曜日放送とか、そういう焦らし方がその代表的な『リアルタイム性』なんだろうと思う。

 

 で、だ。リアルタイム性を狭い形で切り取ったのが上記の例だが、オトナ帝国の逆襲はもう少し広いリアルタイム性の面白さだ。

 そのリアルタイム性の正体は昭和。昭和とそこから発展した平成。そのどちらもを身近に知っていないと、あの作品を本当に楽しむことはできないと思う。

 オトナ帝国の逆襲のメッセージはそんなもんじゃない? 知らんよ。それは分析的に見るならそうかも知れない。でも、でも、舞台が平成で、昭和に帰ろうとするストーリーなんだ。平成と昭和を知らないとただの家族愛のストーリーだ。それならもっといい映画がいくらでもあるだろう。

 そういう意味で、いつかオトナ帝国の逆襲は名作ではなくなってしまうんだ。

 僕らの知らない時代がある。

 映像では幾度となく見ているかも知れない。しかし、ソビエトという国が既に存在しないように、その世界はもう存在しない。その世界を我々は「過去」と呼ぶ。時が流れるのか、我々が流れるのか、ともあれ、僕らが立ち会った時間に再び立ち会うことは許されない。だから歴史があり、言語があり、遺跡があり、書物がある。聖書、ピラミッド。それはいずれも、人という無常を普遍たらしめようとする虚しいあがき、いや、哀切な叫びなのだ。

 その「過去」がそれ以前の「過去」と違ったのは、テレビがあったということだ。

 教科書の過去を、遺跡の過去を、考古学の過去を、空間的に体験するのは難しい。けれど、その「過去」はテレビの発明という魔法の出現に間に合った。僕らは、自分がまだ生まれていない「過去」を映像の中で幾度となく見てきた。初代「ウルトラマン」「ウルトラセブン」再放送の中の東京は、ぼくらがテレビにかじり付いていたとき、既になかった。そう、それはまさに「異世界」だったのだ。

 異世界としての戦後。ファンタジーとしての戦後。低くたれ込める電線の網の目、そこら中を走っている市電、デパートの屋上のアドバルーン・・・モノレールは「未来の乗り物」として画面に登場し、繁栄に向けて流れる時代の、大文字の「未来」への期待を担っていた。その「近未来」ならぬ「近過去」は、ブレードランナーの近未来がファンタジーであるように、すでに映画的な幻想空間として魅力的な場所になっている。それはまぎれもなく「今、ここ」ではない空間。でも、誰もそれを描こうとはしない。それが、あまりに近い過去だから。意外と、すぐ側にあるもののことは忘れてしまうものなのだ。

 その過去を「昭和」という。

 

@xa
副作用は夢を見ること