世界とことばとその認識

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 識字率という指標があって、これはその国民の15歳以上の人々のうちで読み書きができる人の割合であって、教育がどれだけ行き届いているかというものだ。

 南アフリカとかあのへんは40%を割っているが、日本は99%をこえているらしい。平均的豊かさとか餓死することのない国とかそういう話がしたいんじゃなくて。

 私は日本においては識字率はもはや意味のない概念だと思う。もはや読み書きはできて当たり前だから。だからその先のことを考えたい。

 いるでしょ、話の伝わらない手合いが。文字の読み書きはできるのに、意味が伝わらないの。書き手の問題もあると思うけど、多くは受け手の問題で、文章をそのまま受け取ることのできない人たちがある程度いるんだ。

 インターネットが行き届いて目の当たりにした(……というのは嘘。コンビニ夜勤でバイトしていた頃にそういう人たちとも仲良くしていたから)、知らない世界の話。「うちらの世界」なんて、もうインターネット昔話なのかな。当時は衝撃だった。

 

 私たちは思考を言葉に支配されている。世界を言葉によって認識していると言い換えてもいい。そして、その人の中にない語彙のことについては考えられないのも事実だ。

 たとえば、毎日歩いている道の街路樹について。知ってますか。何月に花をつけるとか、お茶にも使われるとか、そういうことを考えたことがありますか。

 ここで、経験の有無は重要ではない。これはいわゆる沈黙するためのことばで、胸に手を当てて自らを省みてほしい。道端に咲く花の名前を知らなければ、日常の景色なんて気にも留めないだろう。山道に積もる色とりどりの落葉を赤、黄、茶色としか言い表せないのはなんとも悲しい話だ。

 知らないと、想像することすらできない。相手が言いたいことを類推したとしても、自分の想定の範囲外に出ることはできない。これが話の通じない人たちの正体で、彼らは自らの想像の限界にぶち当たっている。

 

 これを避けるにはとにかく小さい頃からいろんな人と話す、たくさんの本を読むしかない。想像力とは訓練で鍛えられるものだし、様々な外部に触れることで世界(この場合は語彙)を広げることができる。

 そしてこの話は子どもに限った話ではなく、私たちも同じで、読むこと、書くこと、話すことをやめた瞬間に私たちも話が通じない人になりはじめていくんだと思う。こわい話だ。

 

 快晴の大海原を見て、ただ青いなとしか認識できないとしたら、それはきっと楽しくないと思う。

 だからまずは青を示す語彙を、海と空に関する認識を増やすこと。雲に、光を照り返す波に気付くこと。自然と親しくなること。

 そのために、インプットをやめないこと。伝えるのをやめないこと。

 

 そんなふうに、好く歳を取りたいね。

 

 

 

 

 

@xa
副作用は夢を見ること