よくないことなんだけどね。こんなこだわらなければよかった。
「○○してがち」という言葉を聞くことがある。たとえば誰かの書き込みだったり、ARuFaさんの大喜利回答だったり。ARuFaさんって昔から多少意味が違っていたり、表現がそもそも間違っていたりする言葉遣いをするけど、匿名ラジオとかでそういうのの修正で話の腰をおられるのが嫌いと言っていたから、誰も指摘できずにここまできたのかなとか、閑話休題。
新しく出てきた言葉の用法に対して、何か不自然だなという違和感がなくならない。美しくないと思う。きっとこれが老害の一歩目なんだろうなぁ。ARuFaさんのことだからきっとネットのどこかで拾ってきた表現なんだと思う。そういうのを取り入れ、使っていけるのは、若くて素晴らしい感性を維持しているのだと思う。
さっき「薄暗いこれまた古い喫茶店」という文字を読んだ。気になる。○○い、××いという形容が続いている。どちらか片方の末尾を変えて「○○く、○○い」にした方がいいと思う。そして、古いことを先に表現した方がいいと思う。古いから薄暗いのだ。因果関係を明らかにするため……というより、飲み込みやすくするためにも「古く薄暗い喫茶店」としたい。それなら「これまた」のような修飾語もつけやすい。形容詞が名詞に近くなるから、形容対象を見失いづらい。
気になる。気になるのだ。世の中こんなに気にする人はそうそういないだろう。だからみんなは気にしなくていいけど、私みたいなやつだっているのだ。
でも訂正はしない。文章に限らずアウトプット全般において、インプットに応じたアウトプットがなされるものだと私は思っている。つまり、その人の普段見聞きしているものが表現に反映されているのだ。文章とはその人を写す鏡だ。
どんな単語をどのように使うか。間の取り方や話すテンポは、あるいは漢字にするかひらがなでひらくか、どのように次へつないでいくか……なんてところから、その人の人となりを伺う。そういうことができると信じている。
信じているからこそ、否定しない。曲名が間違っているとかであれば訂正はするけど、国語で書かられる部分については指摘しない。なぜならそれはその人の人生だから。好きにすればいい。
だから私も好きにする。自分のよいと思うことばを使って、美しいと思う文章になるよう心がける。話すときも同じ。使いたいことばを使う。
気楽に生きよう。ことばは不完全だが、それを扱う人間の方が不完全なのだ。だから自由にすればいい。
ただし、見ている人はいるぞ。君が何気なく使ったことばのルーツを気にする人もね。