主人公になりたくない

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 嫌なものがあり、自分ではそれをやらない、そうならないように生きている。私は私に嘘をつかない。これがただひとつの約束。

 他人との約束はたまに破るが、自分との約束は破らない。自分で決めたルールだけは絶対だ。そのように生きている。

 

 ダサいことはしない。これもルールだ。

 努力を他人に見てもらってそれを評価してもらおうとしない。楽して結果だけ得ようとしない。Amazonほしい物リストで匿名の(あるいは記名の)誰かから無料で何かをもらおうとしない。褒められようとしない。欲望を出さない。

 その中のひとつ、主人公になろうとしない。

 

 私はTRPGをはじめとしたロールプレイを主軸とするゲームを遊ぶが、それに向けた指針だ。誰かを否定するためのものじゃない。

 私の人生にドラマチックな物語は不要だ。なぜならそれは嘘っぽいから。

 嘘をつかない。嘘っぽいことはしない。これは私の人生の指針(嘘をつくときはそれとわかるように言う。そうすれば、冗談になるから)。

 ドラマチックな展開とは下準備が必要だ。筋道が決まった上でそれを提供するのは、物書きとしては正しい姿なのかもしれない。でも私がやっているのは、そのキャラクターに固有の交流があり、それを受けて思考や行動が変わり、当初の想像から離れた結果になるのが醍醐味だと思う。なにがあったとしても結果が変わらないのは、嘘だと思う。

 もちろん、その嘘くささを取り除くと「リアリティがある」「説得力がある」と評価される物語になるんだけどね。行き当たりばったりなロールプレイってそういうのやりづらいからね。控えめに見ても嘘っぽさまみれなんだ。

 だから、やらない。じゃあなにを目指すか。背景だ。日常だ。常にそこにあるものだ。特別な何かなんていらない。

 

 死ぬ運命の元に生み出されたキャラクターが、劇的な展開を経て生き続けることになった。そういうのじゃない。

 あるべくしてそこに在り、事件に巻き込まれたり傍観したりし、さしたる影響も及ぼさずただそこに在るだけ。そういうのがいい。

 なにより、人間の都合で死ぬために生み出され、そのまま抗うすべなく死に、そのまま忘れられていくキャラクターがかわいそうだ。そこには自我も自由も人権もない。

 

 

 考えてみれば、私の連続性を保証するのは他人なのだ。友人と会っていない間、その友人からしてみれば私が私であるという保証はどこにもない。しかし、間をおいて私を認識し、誰かに「あいつは元気だった」と伝えることで、広く私が私であることが証明されていく。

 ゴシップは飽きられ、そして忘れられていく。であれば日常となることで忘却に抗うのが一種の理想ではないか。現実で誰かと人付き合いをするように。

 

 主人公になんてならなくていい。日常になりたいのだ。

 だからこうして、毎日あの子たちの様子を投稿している。

  

 

@xa
副作用は夢を見ること