オタク世界では、知識量でマウントを取られたオタクが愛は知識量だけじゃないでしょとか、それに知識量は愛そのものだというやりとりが行われる。明確な結論はでていない。
結論から言おう。私に言わせれば、知識量は愛ではない。
少し前までは知識量もひとつの愛の形だと思っていた。もちろん費やした金額とか、時間や情熱なんかも同様に愛の形だと思っていた。
でも、愛と知識量との間に決定的な差分をひとつみつけた。時間の尺度を使おうよ。
なんらかを理解するために自らのリソースを擲つ行為は、愛そのものだと思う。誰かのことをもっと知りたいとか、このコンテンツの深奥を覗き見たいとか、時間や思考のリソースを用いて、対象への理解を深める。これは愛にほかならない。
ではなぜ知識量が愛ではないか。それは知識量とは、愛の結果だからだ。愛の結果は、愛そのものではない。
なぜ愛そのものではないのか? ここで時間の尺度を使う。知識量が愛そのものであるとすると、「過去好きだった人」と「今好きな人」との愛が等価になってしまうからだ。
私は東方Projectが好きだ。正しくは、かつて好きだった。そんな状態でもかつてとんでもない量のリソースを投入して様々な知識を吸収し、消化し、発展させ、自分なりの意見を持って創作していた。その時の遺産があるんだ。
その遺産をもって、それのみをもってして、私はとあるゲームの何百人規模の界隈のなかで最も東方を愛するユーザーに認定されてしまったことがある。少し不本意だった。好きは好きだが、現役で愛する人ほどではないから。
注げる愛情の量には天井がある。他のゲームにハマれば、それまでにハマっていたものへの情熱は冷めていくし、単純に割く時間がなくなる。それを踏まえると、現役で愛している人の愛をこそ尊重するべきで、ただ知識があるだけの、愛の結果が残っているだけの老人は身を引くべきだと思った。
という体験から、知識量と愛とは別物である、知識量とは愛の結果でしかないと結論した。
愛の結果が愛でないのは、愛が起こった時間を問わないからだ。それが愛だったことは確かだが、愛ではない。そうだろう。
ちなみに、私にとっての愛とは持続である。興味を持ち続けること。私は萌えcanちぇんじ! を愛しているし、脳の内に棲む彼女を愛している。まだ13年ぽっちの付き合いだけど、私の愛が失われないうちはずっと続くだろう。
続けることは、私の誠意だ。