美学の話。
私は理解済みのことがらに対して急速に興味を失う。カルボナーラの美味しい作り方とか、ステレオタイプのキャラクターとか、どこにでもいそうな人とか、初歩的な数学だとか。なにか新しい情報が出てきたとしても想定の範囲で収まりそうなものごとに対する興味が持続しないのだ。
かわりに、わからないものについてはどこまでも深掘りする。作者はそこまで考えてないと思うよ、と何度言われたってやめないね。自分が納得いくまで理解を試行し続ける。
これはもうめちゃくちゃ最悪な習性のひとつで、拗らせて孤立してる美大生みたいな感性だと自覚している。でももう治らないの。慢性疾患だから。インプットでもアウトプットでも、多少わからない方が面白いとすら思っている。
こと最悪なのは自分以外への評価にすら適用されていること。露骨過ぎる表現や、わかってほしすぎるなぞなぞみたいな仕込みに蕁麻疹が出る。そんなことあってはならないはずなんだけど……。
他人の全ての表現をゆるすから、私の器の狭さも許してほしい。
と、ここまで書いてきて例がひとつもないことに気づいた。たとえばだけどね。
クーデレキャラっているじゃないですか。ご存知ですか? クール+デレ。ツンデレ最盛期のあとくらいに流行った概念。今わかりやすいとこで言えば、ブルアカのキキョウとか、シャニマスの樋口円香とか。このふたりですごくいいたとえができる。
ブルアカのキキョウが正月ボイスでこんなこと言ってたらしい。
「今ここにあんたと私がいる。他に何か必要?」
これを聞いた時にうげえええってなって。だって、自分とキキョウがその場にいるのは言わなくてもわかるじゃないですか。だからクサすぎると感じた。これはイコールで「わかりやすい表現である」ともとれます。売れるためには必要なのかもしれない。
一方で、樋口円香はこれ。なんのコミュだっけな。同じようなシチュエーションなんだけど、
ノクチルのメンバーに共通していることではあるんだけど、両者が認識しているものについては言及しないのね。
でも、上記のスクショの部分ではキキョウの言いたかったことと同じ、もしくはそれ以上のなにかがこもっている。あなたと私がいて、なんらかの意思を示す物品が目の前にあって、お互いにそれを了承している。その上で「…………何?」「言葉が、欲しいんですか」ですよ。言葉以外ならあるじゃん。言葉まで欲しいの? って言ってるの。
言葉以外のすべてがあることが前提なの。そして、それはここまできたプレイヤーならわかっているはず。
わかるかな。こういった余白の美です。言わないからこそ、受け手に想像の余地を残す。樋口が人気なのもうなづける。こいつすごいもん。ずっとこうだよ。
言ってしまえばそれまでだから、言わない。でも理解しようとすればわかるようにはする。それが私とコンテンツの、あるいは私の表現と他者との適切な距離感だと思うんだ。
たとえ誰にもわかってもらえないとしても、ね。