『芸術作品の根源』(以下、芸術論文)はマルティン・ハイデッガーによる1935、36年の講演を土台とした論文である。「物と作品」「作品と真理」「真理と芸術」の三つの論文に、序言と後記、そして1956年に執筆された補遺が添えられている。関口浩訳、マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』(平凡社)を用いる。
書籍紹介
芸術および芸術作品については哲学の領域においても多くのことが語られてきた。中でも芸術の本質を美の概念に見、その分析に挑むのが私たちにとっても馴染み深いかもしれない。しかしこの芸術論文において事情は異なる。というのもハイデガーは「芸術とは真理を〔が〕作品の‐内へと‐据えること〔das Ins-Werk-Setzen der Wahrheit〕である」と、つまり芸術の本質を「真理」の顕現とみなし、美については「真理が不伏蔵性としてその本質を発揮する一つの仕方である」と、二次的な役割を与えるにとどめるからだ。芸術が真理を開示するという考察は簡単に頷けるものではない。キャンバスに描かれたモネの「睡蓮」が睡蓮の花それ自体ではないように、普通芸術とは作られたものであり、いわばニセモノである。それではハイデガーの主張するような、芸術が開示する「真理」とは一体どのようなものであるのか。
第一論文「物と作品」では、物の物性の探求に始まり、西洋哲学史におけるいくつかの物性解釈を批判した上で、道具存在の解釈を行う。その際に登場するのがヴィンセント・ヴァン・ゴッホの≪靴≫である。この一枚の絵画の記述によりハイデガーは道具の本質の解明に至り、まさにそのことによって芸術作品は「真理」を開示するものであるとその本質を見出す。
第二論文「作品と真理」では、芸術によって解明される「真理」のより詳細な記述を行う。このとき鍵概念となるのが「世界」と「大地」である。世界とはまさにひとつの世界を「開けて立てる」ことである。そこでは何かが明らかになる。それに対して大地とは拒絶と偽装という二つの伏蔵によって特徴づけられる。大地は私たちの知解を拒む。芸術作品は世界と大地とを共にその本質動向として持ち、「闘争」と名付けられる緊張状態において「不伏蔵性」としての真理が開示される。
第三論文「真理と芸術」では、芸術作品における「創作」と「見守り」の本質的な意義が語られる。芸術作品による真理の生成とは創作であり、真理の生起は見守りであるとされ、芸術家はもとより鑑賞者の意義が考察される。また芸術とは本質的に「詩作」であるという命題が述べられる。これは詩作の本質が真理を贈り、根拠づけ、開始するものとしてみなされているためである。
序言
芸術作品の根源、つまりその本質の由来は何かという問いを立てたとき、まず思い浮かぶのは「芸術家によって作られたもの」という答えである。たしかに芸術作品は芸術家によって作られる。では芸術家の根源は何かという問いを立てるとどうなるか。その答えは「芸術作品の作者」になろう。つまり芸術作品と芸術家は、互いに互いの根源であり、ひとつの循環をなす。しかし両者はそれぞれが独りで立ち、他方の根源となるということにはならない。なぜなら芸術作品と芸術家のどちらもが、その名の通り「芸術」によって存在するからだ。したがってまず「芸術」の根源を探ることが当面の課題となろう。
芸術の本質の探究にあたって、ハイデガーは「芸術が疑いなく現実的に支配している〔walten〕ところ」つまり「芸術-作品」から見出すことを試みる。
芸術とは何であるかということは、作品から取り出されるべきである。作品とは何であるかということを、われわれはただ芸術の本質からのみ経験することができる (p. 12)
そうハイデガーは書くが、すぐに理解されるようにこれは「堂々めぐり」に陥っている。
ではなぜこの方途が選ばれるのか。ハイデガーはこうした論理循環を避ける2つの道――帰納的方法と演繹的方法――を提示する。帰納的方法とはさまざまな芸術作品を列挙し、その比較考察によってそれらに共通する芸術の本質を抽出することである。しかし帰納的方法は十分でない。なぜならいくつかの「芸術作品を列挙」する時点で、そのような選別を行った時点で人は芸術作品ひいては芸術の本質を見出しているからだ。また演繹的方法――芸術の本質の「より高次の諸概念からの導出」―もまた不十分である。なぜならそうした導出は、私たちが前もって有している「芸術」概念を満足することが目指されているからだ。つまり演繹的方法も帰納的方法も、誰もがよく知っている芸術概念をこっそりと目的地に据えた、いわば台本付きの道のりである。ハイデガーはこれらの方法を「自己欺瞞」であると厳しく非難し、その上で先の「堂々めぐり」の遂行を「強さ」「思索の祝祭」と呼んで肯定する。
それではこの円形の旅路の一歩目をどこから始めるのか。ハイデガーはほかの物と同じように「眼前的〔vorhanden〕」に存在する芸術作品へ注目する。このペンやあの壁と同じように、いかなる芸術作品といえどキャンバスや、石や、インクや、空気の振動といった「物的なもの〔das Dinghafte〕」を持っている。芸術作品が人に美的な体験をもたらすとしても、それは物的なものあればこそである。こうしてハイデガーは芸術作品の探求において「物的なもの」の理解が必要であると考え、続く第一論文「物と作品」において「物」の解明を目指す。
物と作品
哲学の領域においては、私たちに身近な椅子や机、窓のみならず、存在するあらゆるものが「物」と呼ばれる。この定義に従えば、目に見える多くのものの他にも、直接感覚できない物自体や神すらも「物」とみなされる。しかしこのような物概念は芸術作品の根源の探求においてあまり有意義ではない。というのもこの定義において芸術作品は物でしかなく、それ以外の物と区別することが難しいためだ。芸術作品は「物的なものを超えてなお何か別のもの」と想定されている。また私たちの日常の言語使用において、この意味で「物」と言うことには抵抗が感じられるだろう。神はただの物ではなく、人間もただの物ではない。釘を打つハンマーは確かに物ではあるが、それすらただの物ではなくまず道具として受け取られる。こうした日常的な実感に寄り添いつつ、ハイデガーは「物」を「単なる物」の範囲に限定する。この「単なる」とは、「単純に物であってそれ以上の何ものでもないような純粋な」であり、同時に「ほとんど軽蔑的な意味で、わずかに物であるにすぎない」ということである。ハンマーが物である以上に道具であるのに対し、「石、土塊、木片」のような使用にすら適さない「単なる物」が「本来的な物」である。ハイデガーはこの本来的な物から「物の物性」を規定することを試みる。物の物性の解明への予備的な考察として、ハイデガーは西洋哲学史において考案され定着した物性解釈を次の三つに分類する。
一つ目は物の物性を「さまざまな偶有性〔Akzidens〕をともなった実体〔Substanz〕」とする解釈である。御影石の塊は単なる物ではあるが、硬く、重く、ざらざらしており、色を持ち、一部には光沢があるといったいくつもの特徴を持つ。この記述における特徴が偶有性に、「~を持つ」という動詞の主語に相当するのが実体である。実体とは本来ギリシアではヒュポケイメノン(日本語では「基体」)と呼ばれ、「それのまわりに固有なもろもろの属性が集められるあのもの」である。物=基体+特徴とする理解は一見自然なようにも感じられるが、ハイデガーはこうした「通俗的な物概念の把握作用は、本質を発揮した物〔das wesende Ding〕を捉えず、むしろそれはそのような物に襲い掛かる」と批判する。ハイデガーはこうした物性解釈の構造と、主語+述語から成る命題の構造の類似を指摘し、どちらが先行しているのかは決定不可能であるとしつつも、両者は共通した「いっそう根源的な源泉に由来する」とし、物性解釈は実のところそう自然なものではないと考える。この解釈が自然に思われるのは、一般に使用される命題構造と似ているからであり、また「長い間の習慣」によるものだとする。そしてこの長い間の習慣によって、物の人間を驚かせる「あの異常なもの」が忘れ去られ、反対に人間が物を対象としてのみ考えてしまうようになる。それこそが物の物的なものに対する「襲い掛か」りであり「暴力」である。ハイデガーは以上の理由から偶有性を持つ実体というこの第一の解釈を斥ける。
二つ目は物を「受容諸器官において与えられたものの多様性の統一」とみなす解釈である。物とは視覚、聴覚、触覚などの私たちの感覚器官に与えられる感覚の束であるというわけだ。こうした解釈は、「物の偽装されざる現前〔Anwesen〕」に身を委ね、物を私たちにとって可能な限り直接的なものにしようとする点で第一の解釈のもつ「暴力作用」を回避できるかもしれない。しかしハイデガーはこの解釈も物の物性を正しく捉えることができないと批判する。なぜならば私たちの感覚とは単に物理学的、生理学的に記述されるものに汲みつくされないからだ。たとえば「バタン」とドアが閉まる音を聴覚で感じたとき、それはただの「騒音」ではない。実際のところ私たちはその「バタン」をドアの閉まる音として感じる。雪の冷たさを感じる際も事情は同様である。私たちは雪の冷たさを感じるのであって、ただの冷たさを感じるのではない。単なる音を、抽象的な冷たさを感じるためには、私たちは意識して物から距離を取らなければならない。これもまたある種の「襲い掛かり」であると言えよう。「われわれにとってはあらゆる感覚よりも、物そのもののほうがはるかに近い」とハイデガーが書くのはこのためである。物を感覚の束として理解しようとするかぎり、私たちは物をそのような直接性で捉えることはできない。そのようなわけでこの第二の解釈も物の物性の解明には不適切として退けられるのである。
上二つの解釈とは異なり、物を「〈それ自体の内に安らうこと〉」のまま理解することができるとハイデガーが期待する三つ目の解釈が「質料-形相〔Stoff-Form〕」の対概念である。この解釈こそが、本来の目的であった芸術作品における物的なものへの問いに役に立つとされる。
質料-形相は一般的には材料とその形といったふうに理解され、たとえばワイングラスは液体を保持するその形が形相で、ガラスという材料が質料とされる。古代ギリシアにおいて質量はヒュレー、形相はエイドスと呼ばれており、プラトンのイデアはエイドスと同義である。よく知られる質料と形相はプラトンを批判的に継承したアリストテレスのもので、彼の体系においては類によって質量が、種差によって形相が与えられるとされた。このような形相の概念は目的論的である。近代の科学革命によりこうした目的論的立場から機械論的立場へと重心が移動し、それに伴って形相概念の意義も低下した。とはいえこのような二元論的な思想は(その内実は異なるとはいえ)現在も広く浸透している。
このように質料-形相の対概念は前述した二つの解釈と同等あるいはそれ以上に良く知られ、使い古されたものでもある。それではなぜ、実体+偶有性解釈を批判し、感覚の束としての理解を批判するという迂回をする必要があったのか。それは「物を形づくられた質料として表象する」という物概念が、これまで自然と思われた解釈がそうではなかったように無批判に採用することはできないからであるとハイデガーは言う。しかしこの質料-形相が「あらゆる芸術理論と美学とのための概念図式そのもの」であるというのもまた事実である。またこの構図は芸術理論と美学の領域にとどまらず、形相が合理的なものに、質料が非-合理的なものに分類され、また質料-形相の対概念が主観-客観の対概念と重ね合わせられることで、存在するものほとんどすべてを語りうる概念とみなされる。ところが質料-形相概念をこのように拡張してしまうと、「序言」において述べた西洋哲学に伝統的な「物」概念と同様にその規定力を失ってしまう。質料-形相の構図によって、単なる物とそのほかの存在するものをどのように区別できるのか。その手段を探るためにハイデガーは質料-形相概念の本質の由来を訪ねる。
ただの物、「それ自体の内に安らっている花崗岩の塊」はある形相を伴った質料である。ここでいう形相は、ここに窪みがありそこが丸みを帯びているといった「空間的・場所的な配分と配置」の「結果」として認められる程度である。しかし私たちが手に取るほとんどのものはそれにとどまらず、より複雑な形相によって規定されている。例として「斧」の場合を考えてみよう。斧は大きく張り出し鋭くとがった刃の部分と、握りしめるための柄の部分を有する。こうした特殊な形状は単に質料が配分された「結果」というわけではない。それとは逆に、形相こそが質料の配置を規定していると言えるだろう。また形相は材料としての質料を指定してもいる。刃は硬質で鋭く加工される金属が選ばれ、柄は軽量で頑丈な木材が指定されるだろう。そしてこのような形相と質料の組み合わせは、斧がそのために用いられる「木を切る」ということ、「有用性」からあらかじめ規定されている。
有用性とは単に目的というわけではない。「有用性とは、壺、斧、靴といった種類の存在するものが、それからしてわれわれに対しその光景を呈示し、すなわち閃き現れ、そしてそれとともに現前し、そのようにしてそうした存在するものであるようなあの根本動向である」とされ、この有用性によって質料-形相が根拠づけられる。こうした有用性の下にある存在するものは、「何かのための道具」として生産されたものである。したがってこの有用性に根拠づけられる質料-形相概念は、あくまで道具という存在者の規定として有効なのであって、単なる物の物性を根源的に規定するものではないことが理解される。
質料-形相概念は物の物性解釈の方法として提出されたものであった。ハイデガーはこの第三の方法も、先の二つと同様に退ける。しかしその理由は質料-形相概念が物の物性を規定しないという点にとどまらない。この概念構図を用いている限り、すべての存在するものは(ある種の信仰に基づいて)被造物、生産物として受け取られる。「単なる物」においてすら、その道具存在を剥奪されたとしても一種の道具であるのだ。私たちが求めている物存在は、そのような剥奪の後になお残余しているものの内にあるのだが、質料-形相概においてその性格は記述されない。そういうわけでこの第三の方法も、物への一種の「襲い掛かり」であるとして否定されるのである。
以上のようにして物の物性を規定する三つの仕方――実体+偶有性、感覚の束、質料-形相――は、それぞれ別の仕方で物への「暴力作用」であるとして、否定される。たしかにこれらの概念は私たちの手になじんだもので、物も、作品も、道具も同様のやり方で解釈することができる。しかし同様のやり方ができるということは、それらの独自性を軽視しているとも言えるだろう。こうした物概念が支配的となった結果、私たちの存在についての思索が遮断されているのである。
ではどうするのか。つまりこのような「襲い掛かり」を避けながら、物、道具、作品を考察するためにはどういった手つきが求められるのか。それは「物をその物であることにおいてそっとしておく」ことである。具体的な方法としてハイデガーは「単純に叙述する」ことを挙げ、論文中で実践する。それがヴィンセント・ヴァン・ゴッホの≪靴≫の記述である。一枚の絵画の単純な叙述を通して、ハイデガーは靴という道具の有用性を解明しようとする。
靴という道具の履き広げられた内側の暗い開口部からは、労働の歩みの辛苦が屹立している。靴という道具のがっしりとして堅牢な重さの内には、荒々しい風が吹き抜ける畑地のはるか遠くまで伸びるつねにまっすぐな畝々を横切って行く、ゆっくりとした歩みの粘り強さが積み重ねられている。川の上には土地の湿気と濃厚なものとがたまっている。靴底の下には暮れ行く夕べを通り抜けていく野路の寂しさがただよっている。靴という道具の内にたゆたっているのは、大地の寡黙な呼びかけであり、熟した穀物を大地が静かに贈ることであり、冬の畑地の荒れ果てた休閑地における大地の解き明かされざる自己拒絶である。この道具を貫いているのは、泣き言を言わずにパンの確保を案ずることであり、困難をまたも切り抜けた言葉にならない喜びであり、出産が近づくときのおののきであり、死が辺りに差し迫るときの戦慄である。この道具は大地〔Erde〕に帰属し、農婦の世界〔Welt〕の内で守られる。このような守られた帰属からこの道具そのものが生じ、それ自体の内に安らう〔Insichruhen〕ようになるのである。
ハイデガーは靴によってひとりの農婦が大地の上に立ち、世界を知る様子を描き出す。この時、大地と世界はまさにその靴によって開示されているのである。そしてこのようにして人(農婦)に対して開示するのは道具の「信頼性」であるとされる。信頼性とは、有用性が「道具の本質的な存在の充実の内に安らっている」ときの「本質的な存在」のことである。道具の本質は信頼性である。このことをハイデガーはゴッホの≪靴≫という一枚の絵画から読み取ったのだ。
ゴッホの絵画を見る、ただそれだけのことによって道具の道具存在が見出された。一見するとこのような考察は主観的で極めて恣意的なものに思われる。しかしハイデガーはそうした批判を「最悪の自己欺瞞」であると厳しい言葉で批判し返す。というのも一枚の絵画は既存の道具存在をよりわかりやすく説明するためのものではないからだ。むしろ事態は逆であって、このような絵画の内においてこそ私たちは道具の何たるかを知る。「道具の道具存在は、作品によってはじめて、そして作品においてだけ、ことさらに輝き現れてくるのである」とハイデガーは書く。
芸術から物へ、物から道具へとほとんど脱線のような迂回をしながらも、いつのまにか、私たちは当初の目的であった芸術作品の前へと帰還している。ゴッホの絵を見ることによって、道具の道具存在が理解された。そしてそれこそが芸術の本質であるとハイデガーは言う。「芸術の本質は、このこと、すなわち存在する者の真理がそれ自体を-作品の-内へと据えること」である。≪靴≫という芸術作品において、この一足の農夫靴という道具が、真理において何であるか開示されたのだ。
一言
最近必要があってまとめた文章ですが、正直よくわかってないです。「単純な叙述」がそんなに効力を持つものなんですか。どうも拍子抜けな印象。ハイデガーはゴッホの描く靴を「農婦」の物と読んでいましたが、実際は農夫の物らしいですね。これはあまり本質的な批判にはなりえないのですが(ハイデガーの言う真理はそのような正当化の真理ではなく不伏蔵性としての真理なので)。ところで≪靴≫くらい具象的な絵画であればいいけれど、モンドリアンとかカンディンスキーみたいな抽象絵画になったら一体この芸術論はどうなってしまうんでしょうか。ハイデガーは一時期ナチに協力していましたが、ヒトラーはバウハウスを弾圧したのでした。