年末に長年働いた会社を退職し、有給消化ニートとなった私は多くの時間を自由を得た。今しかできないことをしなよ、海外旅行とかさ!と上司には言われたが、昨今の世界情勢や大昔に旅行した時とは治安や状態が大幅に変化している海外に行くことには躊躇がある。何よりパスポートの再発行が面倒くさい。
あなたは自由です、何をやってもいいんです、ずっとしたかったけれど仕事や時間の都合でできなかったことをやりましょう。あとはとにかく休んでください。あらゆる占い系で同じことを言われていたのは興味深かった。今年は自由の星に愛されていると。そして恋愛でも仕事でも、何かしらのいい出会いがあるらしい。知らんけど。
ただの残りカス形質凡人おばさんを産んだ母親からの援助もあり、月末に予定されている入院、手術も問題なく行える。本当は親からの援助に頼りたくなくて、それ用の口座はできるだけ使っていなかったがニートになってしまえばそれも難しい。家賃や光熱費、ひとりで生きていくために必要な資金はあまりに多い。退職後は諸々の手続きが必要だし、それも面倒だと感じている真っ只中だ。二次創作の原稿も進めつつ自分と向き合う、ということを延々と行っていくんだろうかと思うとそれも少し気味が悪いと感じる。何より有給消化ニート期間が終わった後の自分が何をするのか、何をしたいのか、全く定まらない。
仕事は好きだった。もともと実家が客商売で、家族全員当たり前のように外面が良かったこともあり接客には向いている自覚もあった。しかしこの職種のリスクは何も身につかないことだ。スキルと言えるものもないし、シフト制で休みも取れないことが多かったため、資格の勉強をする時間も取れなかった。しかしこれは勉強や自分の苦手なもの、そもそも何をしたいのかも分かってない人間が適当に現実から逃げ続けていた言い訳に過ぎない。
自分が本当にしたいこと、なんていうのが何も見つからない。元を辿れば末っ子コンプレックスの話と被るが誰かの真似事をしていただけで、自発的に興味を持って実践する力ややる気なんておそらく最初から持っていない。何者でもないと自称するのはそういう意味で、本当に何にも興味がない。漫画やアニメ、映画、音楽、本を読む等、なんのジャンルでもほとんどそうだ。おすすめされて読んだり聴いたりすることはあるし、それがきっかけで好きなものが増えることもあるが、熱意の高い誰かのプレゼンが必須になるし、それでも興味が湧かないと申し訳ない気持ちでいっぱいになったりもする。自分から興味を持って手に取るものはあまりに少ないし、断捨離真っ最中の部屋に荷物を増やしたくないというのもある。
何者にもなれない自分が知見を広げることを諦めてしまえば、いよいよただのニートおばさんが誕生してしまう。別に焦っているわけではないし、この性質を無理に変えようとも思っていない。小学生の頃は井の中の蛙で、自分は何か特別なものを持っていると漠然と思い込んでいた。中学、高校までいってしまえばただの芋ブスオタクだと自覚するし、自分は自分でしかないと受け入れるまでにはもっと多くの時間がかかった。今の若い世代はどうだろう。ここまでSNSが普及し当然のように顔を出してInstagramやTikTokを使う世代の8割がただの凡人なことに気づくのはいつになるんだろう。それともZ世代のほうがそういった諦めは早く、今の自分というものを受け入れているんだろうか。
年下の友人でもしっかりしている子、やることがきっちり決まっている子、多趣味で時間さえあれば遠征している子など、あらゆる人と知り合ったことをきっかけに、自分がいかに何もしていない人間なのかをより痛感するようになった。同年代と比べても、私はあまりに物事を知らなすぎる。育ちや環境というより、私自身がそういう人間というだけだ。隣の芝生はいつだって青い。
こんな年齢になってから言うものではないかもしれないが、何者にもなれない、という部分を受け入れられたことだけは自分にとってプラスとして受け取ってあげたいと思う。自分に期待できない分、何かできれば小さな喜びや達成感が積み重なっていく。そうして、自分として生きていくしか方法はない。とても平坦で面白くはない生き方だと思う。けれど、それでいいんだろうとも思う。